結語:在家キリスト教一筋――新提唱 日本のキリスト教は、今、生活の表面にだけ漂う皮相な敬虔そうな「ふり」としてのキリスト教に堕していないかどうか。実存の深層に達していないのである。なぜか?プロテスタント信仰の源流を『我』のところで掴んでいないからである。『我のところ』とは、イエスの我即私の我、である。此処で掴む時、キリスト教信仰は、ルターに深く学ぶともに(温故、coming back)、現代の先端へと進展することが出来るのである(知新、passing over)。その時、日本的霊性に立つ世界的キリスト教が生まれる。 (2)在家キリスト教一筋――新提唱在家キリスト教教友各位 こと信仰の究極に関しまして、在家キリスト教は、衆を頼むことを致しません。我々は一人一人主イエス・キリストに在って永遠の父なる神の前で聖霊の導きのもと、一人であります。そのことによって初めて、聖徒の交わりなる教会であります。 十六世紀のプロテスタント宗教改革の父マルティン・ルターの信仰思想に教えられますとおり、我々が神を義とし讃美する事(Deum iustificare)が出来ますのは、ただ我々が己が罪を認識し、承認し、告白する事を通してのみであります。直接的で単一の神讃美は、不可でございます。 だといたしますならば、使徒パウロのローマ書7章24―25節ほど、在家キリスト教一筋を端的に示すものはございません。 嗚呼、我悩める人なるかな。この死の体から我を救わんものは、誰ぞ。我らの主イエス・キリストによりて神は感謝すべきかな。 我々の罪は、我々の罪についてそれをしかと見て絶望しようとしない事において最も顕著であります。つまり、我々は信仰においてここで衆を頼もうとするのであります。ここでこそ、我々は、絶望すべきなのであります。我々を捕らえている恐怖は、絶望への恐怖。主の前で絶望する事への恐怖であります。ですから、こと新たに自らの罪に絶望することほど、信仰者にとって重要な事はないのであります。 人が本当に絶望した時、もはやこころを問題にいたしません。身体を問題にいたします。パウロも、この死の体から、と叫んだとおりであります。この「体」は一丸となったパウロの「我」であります。そこが、皆さん、在家キリスト教の「在家」なのであります。そして、知らねばなりません:ここでの徹底的絶望は、間髪を容れず、「我らの主イエス・キリストによりて神は感謝すべきかな。」のその感謝、その希望、その安らぎと矛盾的に相即しているのであります。西田幾多郎の言う「絶対矛盾的自己同一」の事態であります。 我々は、我々の人生の一齣一齣について、生活の事実に関して、うそ偽りなく正直に、一つ一つの事柄に(もし、罪あらば)絶望すべきなのであります。そして間髪を容れず、「嗚呼、我悩める人なるかな。この死の体から我を救わんものは、誰ぞ。我らの主イエス・キリストによりて神は感謝すべきかな。」とそれに続けて称えるべきなのであります。これが私の「在家キリスト教一筋――新提唱」であります。 仏教の側では良寛も、最晩年、死の床から歌いました。 ここにも、死の体がそのまま「恵みの座」である透徹した認識が貫徹しております。絶望すまいという囚われは、ありません。あなたが絶望すまいといこじになっているから、あなたは何時までも「元の誓ひ」に気付くことが叶わないのです。ただこの身に絶望せよ。そのとき、恵みの座である、汝自身に目覚めることでしょう。 基 督 心 経
基督心経解題:
(2001年12月27日、延原時行これを記す。2002年12月30日補筆) |
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延原時行『仏教的キリスト教の真理:信心決定の新時代に向けて』(京都・行路社、1987年;増補版1999年)(注―この著書は、敬和学園大学の私の講義「比較宗教思想2」で教科書に用いている)。 この拙著への反響として、木原和彦氏を中心にした、ヨルダン会在家集会での読解を、ご紹介したい。Inter-University(大学間大学)の広がりは、ここに豊かに展開されている。木原氏は、1960年代からの私の教友のひとりである。工学博士でもある氏のキリスト教理解は、緻密にしてユニーク、情熱的である。以下の読解は、時に敬和の授業で、教材として閲読させていただきたい。このための木原氏のご親切な許可を、感謝するものである。 2003.1.29 ヨルダン会在家集会議事録
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延原時行『ホワイトヘッドと西田哲学の<あいだ>:仏教的キリスト教哲学の構想』(京都・法蔵館、2001年)(注―この著書は、敬和学園大学の私の講義「現代哲学2」で教科書に用いている)。 この拙著への反響の一つは、参議院議員岩井国臣氏のホームページ「宇宙との響きあい」である |
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第四章:延原時行『地球時代の政治神学:滝沢国家学とハタミ「文明の対話」学の可能性』(福岡・創言社、2003年)(注―この著書は、敬和学園大学の私の講義「現代哲学2」で教科書に用いている)。 この拙著は、『日本全国書誌』2003年33号、図書の部、一般図書、民間出版物、1.哲学、に記載され、国会図書館で閲覧に供せられている。 HPは、http://www.ndl.go.jp/ である。「延原時行」で検索可能。 なお、小倉紀蔵(東海大助教授・韓国哲学)「日朝首脳会談から1年:共通の文化的背景テコに」(朝日新聞2003年9月13日付)は、「(たましいとか心とか言う)この文学的・宗教的・哲学的な言葉を「政治思想」にまで練り上げ、新しい東アジアの枠組みをつくること、これこそ喫緊の課題なのだ。たとえば北朝鮮の餓死者のたましいと、亡くなった従軍慰安婦のたましいと、靖国神社に眠るたましいとを同時に悼むことができるか、との問いに対し、いまだ自らの言葉で「考える」ことすらしていないのがわれわれ東アジアの現場なのである。」と、西洋近代の枠組を超える「政治思想」の必要を問題提起して、その延長戦上で、北朝鮮との問題を扱い、「日本社会が多元的価値を許容する開かれた普遍の舞台になる」未来を展望する論調は斬新で、好ましい。ただし、この方向がただ西洋近代の枠組を超えるものなのか。いや、西洋には、長い政治神学の伝統があるのであって、それと日本的=アジア的なものとの融合が、実は、真の課題なのだ、と私は、右の拙著で主張したつもりである。 |
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第五章:この点、拙著『至誠心の神学:東西融合文明論の試み』(京都・行路社、1997年)(注―「演習4F」で教科書として使用)も参照されたい。なお、この拙著は、近畿視情協で閲覧に供せられている。 そのHP: http://www.ichigo.sakura.ne.jp/~kinnki/menu/9809.htm
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第六章:延原時行『地球時代の良寛』(新潟・考古堂、2001年)(注―この著書は敬和学園大学の私の講義「比較宗教思想2」「演習1F」で教科書に用いている)。 この拙著への反響は、東京新聞:桐山桂一記者「江戸宇宙」:http://www.tokyo-np.co.jp/edo/edo/edo030517.htmlを参照されたい。なお、良寛についての拙論は別に、キリスト教学校教育同盟ホームページ:http://www.k-doumei.or.jp/np/2002_10/menu.htm
に掲載されている。 |
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以上、拙著七冊の敷衍=展開と反響を見たわけです。この作業は、これからこのPDEInter-Universityニューズレターで続けることとしたいと思います。要するに、これは一例であって、今日、大学の授業は、Inter-University(大学間大学)の広大な社会空間との往還運動を考慮することなしには、適切に営むことが出来ない、ということであります。この事実は、大学の既成のあり方をドラスティックに相対化いたします。学部や学科がそれだけで大学の全てではないのであります。21世紀の大学のいのちは、Inter-University空間の発見と活用にあるのであります。そのことは、英語圏においては、私の世界哲学会およびプロセス哲学会の同僚達のあいだでいち早く現実化しております。そこで、そのしるしに、只今世界中で読まれている拙論三つを、最後にご紹介させていただきたいと思います。(付記:英語の読める学生諸君は、閲読が推奨されます。英語の「閲読レポート」は、特別に評価いたします。「PDEInter-University評価」と名付けます。この範疇は、敬和学園大学の枠を超えます。延原個人の署名入りの評価推薦となります。面談の上、「評価」授与いたします。)
2003年9月12日 |
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