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PDE Inter-Universityニューズレター:第四号
  目次
 はじめに
 第一章:マルティン・ルターの信仰思想と現代
 基督心経
 第二章:ヨルダン会在家集会議事録等
 三、四、五、六章
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PDE Inter-Universityニューズレター:第四号(2003年9月15日付)

“敬和学園大学2003年度の新風:週報集、エッセイ教育、公開学術シンポ”

はじめに:
 前回までの三号にわたって、PDEInter-University Center(昨年8月発足)の任務は、大学は大学のために生きるのではなく、地球上の大学と大学のあいだの広大な社会空間に、(1)地球時代の意識の覚醒;(2)平和の構築;(3)対話の促進、という三重の学術―教育活動を、インターネットを媒介にして展開することである、と銘記いたしました。

このセンターは、既に敬和学園大学開学時より、延原研究室に所在する世界的なプロセス研究機関である、East-West Process Studies Project: Keiwa-Claremont(東西プロセス研究プロジェクト:敬和―クレアモント)の情宣機関です。因みに、同プロジェクトは、米国カリフォルニア州クレアモント所在のCenter for Process Studies, 1325 N. College Avenue, Claremont, CA 91711, USA: http://www.ctr4process.orgとアフィリエートしています。元々、1985年にクレアモントのプロセス研究センター(CPS)内に設立された学術機関であるからであります。

 「PDEInter−University」(PDE大学間大学)というアイディアは、全く新しいものであります。大学を「地球上の大学と大学のあいだの広大な社会空間」の一事例として捉え、この「空間」をユニークに「性格付ける」ところに大学という社会単位の基本的位置づけを求めます(第三号、おわりに、参照)。「性格付け」は、そこで、我々の場合、(1)Peace (平和);(2)Dialogue(対話);(3)Earth(地球意識)、の三者であります。

 そこで、今回は、右の基本理論に立脚しつつ、私の専門分野「哲学と神学のあいだ」に関する教材論を展開いたしたく存じます。一般に、大学内の授業(講義、演習)の教材は、担当教員がInter-Universityの広大な社会空間=社会ダイナミズムに働きかけ、同時にそこからのフィードバックを得る、という双方向の流れを体現したものでなくてはなりません。

働きかけは、著書のかたちでなされ、フィードバックは論評のすがたを取ります。著書のモティーフは、時に講演や短文の中でリフレインされます。こうした全てが、教室で聴講者に、教材として、指示される必要があります。それは、単に、以下ここに掲載する文章の数々を聴講者が読む、というだけでなく、右の「著書や講演による社会空間への働きかけ」(著者:担当者)と「社会空間からの論評のフィードバック」(読者:新しい書き手)のあいだの交流のダイナミックスを了解する、という、いわば地球時代の新しい社会意識の自覚のためなのであります。教材とは、そのような二重の意味を有するわけです。(付記:2003年後期から、私の講義、演習の履修者は、PDEInter-Universityニューズレターを閲読することが推奨されるわけです。「閲読レポート」が求められます。)

こうして、このInter-University時代、教材の意味が革命的に変化いたします。つまり、教材とは、(1)教室内での補助手段の位置から、(2)地球意識の自覚へ、という、意識革命のプロセスへと変貌するのです。こうなると、もう、教室内だけで、教授がノートを読んでいるだけの所謂「授業」は、情報革命時代の古代的遺物かもしれません。そこには、地球空間とのあいだの往還現象―往還運動がないのでありますから。

この時代には、18歳人口だけが、大学で「勉強する」あり方、したがって、彼らの数を求めて競合する大学の「サバイバル作戦」――そのための新学部・新学科の立ち上げ競争――は、(たしかにそれぞれの内部事情を考慮すれば、至極尤もな動機があるのでありますが)Inter-Universityの広大な地球空間を排除して考えている以上、つまり、プロセス思想で言う「実体哲学思考」(substance philosophy)にがんじがらめになり、「プロセス―関係論的思考」(process-relational thought)に転じていない以上、宇宙の実情に合致いたしません。亡びるだけです。

その危機感が、私に、このPDEInter-University Centerとそのニューズレターを、2002年度の第十回国際哲学オリンピアード(IPO)を国連大学で開催したことを契機に、始めさせたのであります。X.IPOそのものが全くInternetによる組織の産物でありました。その成果に、その実施者である私自身が、驚き、感銘を深めたのであります。――「この時代の名は、PDEInter-Universityの開始、であるのだ」と。

この時代に、誰もが新しい観念を発案、提示すべきであります。それを他の人々の観念と交換、交流すべきであります。誠に、ホワイトヘッドも言いましたように、一番重要なのは、ADVENTURES OF IDEAS(観念の冒険)であります。誰かの固定観念による、一地域一大学一学科一団体一党派の占有ではない!私たちは、時代の革命的変化に、括目すべきであります。

ここで、大学の講義とInter-University社会空間とのあいだの「往還運動」につき、キーワードは単に即自的な「共存」(coexistence)や「共生」(symbiosis)でなくプロセス=関係論的な「思想の交流」(exchange of ideas)であることは、一言しておく必要があるでしょう。それというのも、根本的に考えますと、宇宙の最深の状況である「神人一体の原事実」(滝沢哲学に言うインマヌエルの原事実)にしてが、私が新著『地球時代の政治神学』170頁で論証いたしましたように、固定的な「原事実」の自発的自己否定としての「神人の第二義の接触」(原事実の自覚態)への躍動のプロセス――普通の、ホリゾンタル(水平的)なプロセスに対して、ヴァ―ティカル(垂直的)なプロセスと呼ぶべきもの――を、刻々に含まないでは、現象しないからであります。

この意味では、共存とか共生とかいう事態は、常にその内部からそれ自体を破る、突破する、変革する、という力動を含まないならば、直ちに米国人たちが軽蔑して言う「相互依存症候群」(co-dependency syndrome)(注・互いの独立心や正常な競争原理を許容しない、人と人との心理的癒着状態)に陥ることでありましょう。この地球時代に、CO-DEPENDENCYという病理を破り、癒すのが、私見によれば、Inter-University社会空間と「大学」(注・個々の人間の知的仕事場、と総称してもいいでしょう)のあいだの、ADVENTURES OF IDEAS(観念の冒険)による、「心の交流」(heart to heart exchange)なのであります。所謂「社会的弱者」を、この意味では、「労わるべき可哀想な人々」とだけ見るのではなく、「交流の相手」とすべきなのであります(『PDEInter−Universityニューズレター』第三号所載、「2003年度前期週報集」編集後記付録、基礎演習延原ゼミ・レポート(3):高橋惇「十人十色の交流」、参照)。

いずれにいたしましても、これからのPDEInter-University「交流」の時代は、実に楽しみです。先ずは、今回は、以下七章にわたる「交流」現況報告。なお、拙著一覧(但し1985年以降)は、丸善:http://www.maruzen.co.jp/cgi-bin/mis
に「延原時行」と入力、検索可能です。

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第一章:

延原時行『無者のための福音:プロセスタント原理の再吟味を媒介に』(福岡・創言社、1990;1999増補版)(注―この著書は、敬和学園大学の私の講義「比較宗教思想1」で教科書に用いている)の最近の敷衍=展開を、以下に記録しておきたい。講演、提唱、基督心経の三節からなる考察である。

(1)新潟地区壮年部集会:2003年8月30日(土)午後一時;於東中通教会


マルティン・ルターの信仰思想と現代

 延原 時行

マルティン・ルターの信仰思想と現代の問題(宗教間対話、地球時代の良寛の意義)のあいだを考えるに、温故知新の方法でもってしたい。英語でいえば、coming back(立ち返り)とpassing over(移り越し)の方法であって、これは、恩師ジョン・カブが『対話を超えて――キリスト教と仏教の相互変革の展望』で打ち出した方法の逆である。この方法が今日の日本の教会にとって緊要であると確信する。

先ず、問いたい。我々はマルティン・ルターの信仰思想を、プロテスタント信徒として本当に知っているであろうか。これは、重大問題である。振り返れば、これこそ正しく私の同志社の神学生時代の切実な問いであったのである。

その問いの切実な衝迫力に促されるままに、ルタ−研究に打ち込んだ。そうする内に、@ルターの修道院入りの問題、A詩篇講義からの新しき義の発見、Bルターの信仰義認の理解におけるユニークなもの、が、幸いにして、見えてきた。感動の時であった。プロテスタント信仰の源流を学びおおせた悦びである。(拙著『無者のための福音――プロテスタント原理の再吟味を媒介に』福岡・創言社、1990年、参照。)

この学びは、次に、Cイエスの十字架上のあの叫び「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」(我が神、我が神、何ぞ我を見捨てたまいし)(マルコ15:34)に現われた「我」の新しい理解(受肉の深層理解)に私を運んだ(前掲書第二章)。新しい理解とは、西欧キリスト教より新しいと言う意味である。このために、過去四十年間書いてきて昨年9月に脱稿した『受肉の神学――救済論と形成論』(一部は、敬和学園大学2003年度前期「組織神学」講座で公開)の苦闘が必要であった。
第三に、Dそのことが、今では、現代の最も先端的な問題としての宗教間対話、ことに良寛理解に私を導いてやまないのである。(拙著『地球時代の良寛』新潟・考古堂、2001年、参照。)

こうした五点にわたるルタ−研究を踏まえて、最後に、E「在家キリスト教一筋――新提唱」を提言してみたい。

一:ルターの修道院入りの問題(『無者』第6章)
1. 1505年1月2日シュトッテルンハイムにおける落雷(初期条件)
2. 死の恐怖
3. 審判者としての神
4. 非促進的要因としての「出世」意識に勝る求道精神(超自然的関心)

二:詩篇講義からの新しき義の発見(『受肉』第二部第3章)
1. 汝の義をもって我を助け給え(In iustitia tua libera me.)(詩篇30篇と70篇)をめぐる苦悶
2. 応報的義(retributive justice)の問題
3. ローマ書1:17の衝撃:「神の義」「福音」「信仰から信仰へ」「信仰による義人は生きる」
4. 創造的義(creative justice):iustitia qua nos iustus faciens(それによって我々を義人に成す義)
5. その内容:「自らを深淵にまで謙らせること」(sese in profundum humiliare)=受肉
6. ルターの不朽の功績:「義」(iustitia)を西洋的伝統の中心概念へと復興した事
7. 奇妙な事実:日本国憲法・前文に(平和思想あって)原理としての正義の思想なし。なぜか?ただし、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して(trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world)、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と述べている。ここで言う「公正」は、ルターの問題にしたような超越的原理ではなく、公正感覚とでも言うべき意識のことであろう。原理としての正義に関しては、拙著『至誠心の神学――東西融合文明論の試み』京都・行路社、1997年、参照。

三:ルターの信仰義認の理解(『無者』第5章)
1. 神を義とする(Deum iustificare)
2. 自己の罪を認識、承認、告白する
「喜んで罪人でありたい、それは汝がわが内で義とせられたまうためである」(Libenter peccator ut tu iustificeris in me.)
3. 信仰義認
4. 文学、絵画、音楽への影響(告白芸術)およびジャーナリズム

四:「何ぞ我を?」の理解(『無者』第2章)
1. 神を義とする(Deum iustificare)
2. 私のルター的実存的理解(『無者のための福音』第二章)

五:『地球時代の良寛』が書けたことの意味
1. ルターと良寛をつなぐもの:告白的実存

結語:在家キリスト教一筋――新提唱

日本のキリスト教は、今、生活の表面にだけ漂う皮相な敬虔そうな「ふり」としてのキリスト教に堕していないかどうか。実存の深層に達していないのである。なぜか?プロテスタント信仰の源流を『我』のところで掴んでいないからである。『我のところ』とは、イエスの我即私の我、である。此処で掴む時、キリスト教信仰は、ルターに深く学ぶともに(温故、coming back)、現代の先端へと進展することが出来るのである(知新、passing over)。その時、日本的霊性に立つ世界的キリスト教が生まれる。

(2)在家キリスト教一筋――新提唱

 在家キリスト教教友各位

こと信仰の究極に関しまして、在家キリスト教は、衆を頼むことを致しません。我々は一人一人主イエス・キリストに在って永遠の父なる神の前で聖霊の導きのもと、一人であります。そのことによって初めて、聖徒の交わりなる教会であります。

十六世紀のプロテスタント宗教改革の父マルティン・ルターの信仰思想に教えられますとおり、我々が神を義とし讃美する事(Deum iustificare)が出来ますのは、ただ我々が己が罪を認識し、承認し、告白する事を通してのみであります。直接的で単一の神讃美は、不可でございます。

だといたしますならば、使徒パウロのローマ書7章24―25節ほど、在家キリスト教一筋を端的に示すものはございません。

嗚呼、我悩める人なるかな。この死の体から我を救わんものは、誰ぞ。我らの主イエス・キリストによりて神は感謝すべきかな。

我々の罪は、我々の罪についてそれをしかと見て絶望しようとしない事において最も顕著であります。つまり、我々は信仰においてここで衆を頼もうとするのであります。ここでこそ、我々は、絶望すべきなのであります。我々を捕らえている恐怖は、絶望への恐怖。主の前で絶望する事への恐怖であります。ですから、こと新たに自らの罪に絶望することほど、信仰者にとって重要な事はないのであります。

人が本当に絶望した時、もはやこころを問題にいたしません。身体を問題にいたします。パウロも、この死の体から、と叫んだとおりであります。この「体」は一丸となったパウロの「我」であります。そこが、皆さん、在家キリスト教の「在家」なのであります。そして、知らねばなりません:ここでの徹底的絶望は、間髪を容れず、「我らの主イエス・キリストによりて神は感謝すべきかな。」のその感謝、その希望、その安らぎと矛盾的に相即しているのであります。西田幾多郎の言う「絶対矛盾的自己同一」の事態であります。

我々は、我々の人生の一齣一齣について、生活の事実に関して、うそ偽りなく正直に、一つ一つの事柄に(もし、罪あらば)絶望すべきなのであります。そして間髪を容れず、「嗚呼、我悩める人なるかな。この死の体から我を救わんものは、誰ぞ。我らの主イエス・キリストによりて神は感謝すべきかな。」とそれに続けて称えるべきなのであります。これが私の「在家キリスト教一筋――新提唱」であります。

仏教の側では良寛も、最晩年、死の床から歌いました。

  
    わがのちを
    たすけたまへと
    頼む身は
    元の誓ひの
    すがたなりけり

ここにも、死の体がそのまま「恵みの座」である透徹した認識が貫徹しております。絶望すまいという囚われは、ありません。あなたが絶望すまいといこじになっているから、あなたは何時までも「元の誓ひ」に気付くことが叶わないのです。ただこの身に絶望せよ。そのとき、恵みの座である、汝自身に目覚めることでしょう。

2003年7月30日
延原時行これを記す

基 督 心 経

司式: この故に若しキリストによる勧め、愛による慰安(なぐさめ)、御霊の交際(まじわり)、また憐憫(あはれみ)と慈悲とあらば、なんぢら念(おもひ)を同じうし、愛を同じうし、心を合せ、思ふことを一つにして、我が喜悦(よろこび)を充たしめよ。何事にまれ、徒党また虚栄のために為(す)な、おのおの謙遜をもて互に人を己に勝れりと為よ。おのおの己が事のみを顧みず、人の事をも顧みよ。汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。
会衆: 即ち彼は神の貌(かたち)にて居給ひしが、神と等しくある事を固く執らんとは思はず、反つて己を空しうし僕(しもべ)の貌をとりて人の如くなれり。既に人の状(さま)にて現れ、己を卑(ひく)うして死に至るまで、十字架の死に至るまで順(したが)ひ給へり。この故に神は彼を高く上げて、之に諸般(もろもろ)の名にまさる名を賜ひたり。これ天に在るもの、地に在るもの、地の下にあるもの、悉くイエスの名によりて膝を屈め、且もろもろの舌の『イエス・キリストは主なり』と言ひあらわして、栄光を父なる神に帰せん為なり。
司式: イエスース・クリストス
会衆: インマヌエール
一同: アーメン

基督心経解題:

一。 「基督心経」は、信徒各自の在家礼拝のために編まれたものである。在家礼拝は、常住不断のもの。信徒の呼吸、日々のクリスマスである。かくして今、日本のキリスト教礼拝式は、教会と在家の両輪の時代に入る。在家礼拝の時代に入らねば、牧師でさえ(引退後)、礼拝の無いまま、教会の外で死ぬ不条理を如何せん。
二。 フィリピの信徒への手紙2章1節―11節(文語訳)のテキストを司式と会衆のあいだの交読文にうつしかえた。別に、1976年1月16日、「在家基督教教程(草案)」序文を付し、基督心経本文、開題とともに一本を編んでいる。(2002年12月15日脱稿の拙著『私のキリスト教弁証論』第6章に新たに収められる。)
三。 司式は、使徒パウロ(教会の伝統)を代表し、会衆は、「基督心経」(いわゆるキリスト讃歌)を称えるのである。交唱が、伝統を受け継ぐかたち、礼拝である。
四。 次に、司式は、イエスース・クリストスと称える。初代教会の告白「イエスはキリストである」の原語(ギリシャ語)の発音どおりに、である。伝統の最も厳かな声。パウロが、キリスト・イエスという事態(ガラテヤ5:6;フィリピ2:5)。
五。 これを受けて会衆が、インマヌエールと答える。「イエスはキリストであるとは、神我らと共に在す、とのことわりである」という称名である。信徒の実存の深淵からの声。パウロが、我がうちに生きるキリスト、という事態(ガラテヤ2:20)。
六。 一同、アーメンと和する。「まさに然り」との全幅の同意である。二つの声の一致。パウロが、キリスト・イエスにおける神の約束の成就(「しかり」)に対して「アーメン」と唱えよ、という事態(第二コリント1:20―22)。
七。 「基督心経」の心は、キリスト・イエスの心を心とすることである。それは、単に精神を受け継ぐことではない。「キリスト・イエスの心のままにいま人となること」である。キリスト降誕即あなたの霊性上の誕生。
八。 キリスト・イエスの心とは、何であろうか。いわゆるキリスト教精神のことであろうか。そうではない。イエスがキリストである「所以」(根源=事理)のことである。それは、キリストのケノーシス(自己無化)の力動であって2002年の昔の事であるまま、直ちに今此処で万人の脚下に及んでいる。それ故に、絶えず「インマヌエル」する(すなわち、神われらと共に在す事理の自己展開する)恵みなのである。この恵みの大地の上に息していない人はひとりも居ない。そう見ないならば、キリスト教の福音は、2002年前の聖なる点だけの真理で、残余の空間は虚無でしかなく、福音が、線、面、いや立体とならぬ。あなたの生活の全体性が失われている。聖なる観念論。
九。 キリスト・イエスの心を心とするとは、かくして、次に、ケノーシスの彼を甦らせ給うた神と共に、「イエス・キリストはインマヌエールの主なり」と言いあらわして、栄光を父なる神に帰すること、である。「栄光神にのみあれかし」(Soli Deo Gloria!)の流れは、こうしてあなたの人生の流れとなる。この流れは、無窮である。死を超えて無窮である。何故無窮なのか。それは、イエスがキリストである「所以」(キリスト・イエスの心)を伝統の最も厳かな声として聞きつつ、間髪を容れずこれを信徒の実存の深淵よりインマヌエル(=主、キュリオス)と言い表すことの中で、さらに奥深い消息、すなわち、インマヌエルの彼方(=父なる神)、より正しくは、インマヌエルする彼方、を讃えているからなのである。
十。 アーメン。宇宙人生の信実。それは、ケノーシスと復活と称名と讃栄にある。かく称えながら人は、時々刻々人となり、遂に人生の最後の転換点を経て、永生に至る。生涯、アーメンの修業の場である。
付言: この開題に表されたキリスト教的福音は、三段階の真理である。(1)イエスはキリストである、という伝統の声。(第一コリント12:3、熟読参照。)(2)その心を、信徒の実存の深淵よりインマヌエールと称える、在家称名の声。(ガラテヤ2:20、熟読参照。)(3)二つの声の一致を聖霊にあって称える、アーメンの声。(ヨハネ15:26、16:13、熟読参照。拙著『ホワイトヘッドと西田哲学の《あいだ》』238頁、参照。)

(2001年12月27日、延原時行これを記す。2002年12月30日補筆)

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第二章:

延原時行『仏教的キリスト教の真理:信心決定の新時代に向けて』(京都・行路社、1987年;増補版1999年)(注―この著書は、敬和学園大学の私の講義「比較宗教思想2」で教科書に用いている)。

この拙著への反響として、木原和彦氏を中心にした、ヨルダン会在家集会での読解を、ご紹介したい。Inter-University(大学間大学)の広がりは、ここに豊かに展開されている。木原氏は、1960年代からの私の教友のひとりである。工学博士でもある氏のキリスト教理解は、緻密にしてユニーク、情熱的である。以下の読解は、時に敬和の授業で、教材として閲読させていただきたい。このための木原氏のご親切な許可を、感謝するものである。

2003.1.29

ヨルダン会在家集会議事録

 ヨルダン会在家集会(8)議事録
 ヨルダン会在家集会(9)議事録
 ヨルダン会在家集会(10)議事録
 ヨルダン会在家集会(11)議事録
 ヨルダン会在家集会(12)議事録
 ヨルダン会在家集会(13)議事録

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第三章:

延原時行『ホワイトヘッドと西田哲学の<あいだ>:仏教的キリスト教哲学の構想』(京都・法蔵館、2001年)(注―この著書は、敬和学園大学の私の講義「現代哲学2」で教科書に用いている)。  

この拙著への反響の一つは、参議院議員岩井国臣氏のホームページ「宇宙との響きあい」である

 
 

 

第四章:

延原時行『地球時代の政治神学:滝沢国家学とハタミ「文明の対話」学の可能性』(福岡・創言社、2003年)(注―この著書は、敬和学園大学の私の講義「現代哲学2」で教科書に用いている)。

この拙著は、『日本全国書誌』2003年33号、図書の部、一般図書、民間出版物、1.哲学、に記載され、国会図書館で閲覧に供せられている。

HPは、http://www.ndl.go.jp/ である。「延原時行」で検索可能。

なお、小倉紀蔵(東海大助教授・韓国哲学)「日朝首脳会談から1年:共通の文化的背景テコに」(朝日新聞2003年9月13日付)は、「(たましいとか心とか言う)この文学的・宗教的・哲学的な言葉を「政治思想」にまで練り上げ、新しい東アジアの枠組みをつくること、これこそ喫緊の課題なのだ。たとえば北朝鮮の餓死者のたましいと、亡くなった従軍慰安婦のたましいと、靖国神社に眠るたましいとを同時に悼むことができるか、との問いに対し、いまだ自らの言葉で「考える」ことすらしていないのがわれわれ東アジアの現場なのである。」と、西洋近代の枠組を超える「政治思想」の必要を問題提起して、その延長戦上で、北朝鮮との問題を扱い、「日本社会が多元的価値を許容する開かれた普遍の舞台になる」未来を展望する論調は斬新で、好ましい。ただし、この方向がただ西洋近代の枠組を超えるものなのか。いや、西洋には、長い政治神学の伝統があるのであって、それと日本的=アジア的なものとの融合が、実は、真の課題なのだ、と私は、右の拙著で主張したつもりである。

 
 

 

第五章:

この点、拙著『至誠心の神学:東西融合文明論の試み』(京都・行路社、1997年)(注―「演習4F」で教科書として使用)も参照されたい。なお、この拙著は、近畿視情協で閲覧に供せられている。

そのHP: http://www.ichigo.sakura.ne.jp/~kinnki/menu/9809.htm


敬和学園大学
C.c.:新井明学長

 
 

 

第六章:

延原時行『地球時代の良寛』(新潟・考古堂、2001年)(注―この著書は敬和学園大学の私の講義「比較宗教思想2」「演習1F」で教科書に用いている)。

この拙著への反響は、東京新聞:桐山桂一記者「江戸宇宙」:http://www.tokyo-np.co.jp/edo/edo/edo030517.htmlを参照されたい。なお、良寛についての拙論は別に、キリスト教学校教育同盟ホームページ:http://www.k-doumei.or.jp/np/2002_10/menu.htm に掲載されている。

 
 

以上、拙著七冊の敷衍=展開と反響を見たわけです。この作業は、これからこのPDEInter-Universityニューズレターで続けることとしたいと思います。要するに、これは一例であって、今日、大学の授業は、Inter-University(大学間大学)の広大な社会空間との往還運動を考慮することなしには、適切に営むことが出来ない、ということであります。この事実は、大学の既成のあり方をドラスティックに相対化いたします。学部や学科がそれだけで大学の全てではないのであります。21世紀の大学のいのちは、Inter-University空間の発見と活用にあるのであります。そのことは、英語圏においては、私の世界哲学会およびプロセス哲学会の同僚達のあいだでいち早く現実化しております。そこで、そのしるしに、只今世界中で読まれている拙論三つを、最後にご紹介させていただきたいと思います。(付記:英語の読める学生諸君は、閲読が推奨されます。英語の「閲読レポート」は、特別に評価いたします。「PDEInter-University評価」と名付けます。この範疇は、敬和学園大学の枠を超えます。延原個人の署名入りの評価推薦となります。面談の上、「評価」授与いたします。)

(1)Tokiyuki Nobuhara, “Hartshorne and Nishida:
Re-Envisioning the Absolute. Two Types of Panentheism vs. Spinoza’s Pantheism”

http://www.bu.edu/wcp/Papers/Cont/ContNobu.htm

(2)Tokiyuki Nobuhara, “Barth and Whitehead:
Transforming and Reinterpreting Barth’s Theology in a Process Perspective”

クレアモントのプロセス研究センターのHP(はじめに、参照)“MemberOnly”で公開中。『敬和学園大学紀要』第12号、2003年2月28日発行、49−70頁。
なお、JICPS Japanese(日本ホワイトヘッド・プロセス学会HP):http://pweb.sophia.ac.jp/~yutaka-t/process/nihongo.htm
でも公開中。

(3)Tokiyuki Nobuhara, “Between Whitehead and Nishida-tetsugaku…”
http://www.keiwa-c.ac.jp/ipo/

2003年9月12日
延原時行これを記す
Email:tnbhara@cocoa.ocn.ne.jp

 
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