国際哲学オリンピック(International Philosophy Olympiad: IPO)は高校生の哲学エッセイ・コンテストです。応募資格は中学3年から高校2年までとなっています。第17回IPOは2009年5月にオーストリアで開催の予定です。次回の国内予選の詳細については本年11月1日に敬和学園大学のHP (www.keiwa-c.ac.jp/ipo/index.html) に発表しますので、ふるって応募してくださるよう期待いたします。 2008年2月25日
IPO国内委員会 備考:上記二名の日本代表を第十六回ルーマニア大会に送るに当って、昨年度(PDE Inter-Universityニューズレター17号、参照)と同様、日本の高校生諸君に「哲学の心得」をここでまた一言述べて、激励の言葉とさせていただきます。 日本の世界に誇る禅学者・鈴木大拙の言葉に以下のようなものがあります。原文(英語)を引用してみましょう。 Indeed, ignorance is the negation of Enlightenment and not the reverse. (D.T. Suzuki, Essays in Zen Buddhism: First Series [New York: Grove Press, 1961], p. 139.) まことに、無明は悟りの否定であって、その逆ではない。 この言葉に、昨年プラトンの『ソクラテスの弁明』を引用して強調した、哲学の醍醐味である「魂の解放」と同様のトーンが響いているではありませんか。ソクラテスの場合、魂の解放は、「感覚的で可視的なもの」から「叡智的で不可視なもの」への飛躍にあったのですが、大拙の場合は、無知(仏教では無明)の転換(悟りへ転換)にあるのです。では、どのようにして?申しましょう:無知を本当のリアリティだとみなさない事によってであります。無知を一切真っ当な現実とはみなさない事によってであります。 どういうことでしょうか?つまり、こういうことです:無知とは、本当の本当のものの取り違えとして、初めて無知なのですよ。大拙が、Ignorance is the negation of Enlightenment.と言う場合、無明とは、悟り(Enlightenmentという風にcapitalizeされた「悟り」、つまり、大文字の「悟り」、「それそのものが実在である悟り」)の否定の事である、と言いたい訳なのです。 言い換えれば、我々の世界が暗黒で、日本では壮年男子を中心にして一年に3万人も自殺するほど絶望的な状況が続いている、というような現状があるとして、これは一体何なのか、といえば、底抜けに明るい実在(Enlightenment)を否定しようとしているからに他ならない。つまり、自分で勝手に絶望的になるようにこさえた世界を我々が持っているだけだ、というわけですね。仏教でいう「自業自得」「自縄自縛」です。 哲学は、そこを見抜いて自己解放を果たす学術の粋であります。昨年引用したホワイトヘッドが、「創造の過程にあずかる限り、人間は神的なもの、神にあずかります。かかる参与こそ人間の不死性であり、(中略)そこに人間の尊厳と崇高さがあるのです」と力説するのも、この自己解放ゆえなのです。 日本の高校生のなかで、人生で一度失敗したら、もうやり直せない、という悲観的な人生観が拡がっていることが、高校生新聞社(東京)の調査で分かったようです(新潟日報、2007年10月17日付)。今の日本に生れてよかった、と思っている人が28%だけですとか。どうです、こんな暗い状況(実は、作り物の「明るい実在」否定の結果でしかないもの)を、あなたは哲学的思索によって突破してみませんか。今回の入賞者御両名は、突破の力がありました。 (文責:延原) |
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