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【学生レポート】デュシェンヌ型筋ジストロフィーと共に[2016-11-11]

2015年11月12日(木)「障害者福祉論2」の授業において、「デュシェンヌ型筋ジストロフィー」の当事者の学生である塩澤康介さんが、自己の障害を多くの人々に理解してもらいたいという思いを込めて行った語りを文章化し、ここにご紹介します。

*塩澤さんのレポートに、編集部でサブタイトルなどを加筆し、大学生活などの写真を組み入れさせていただきました。

プレゼンテーションをする塩澤康介さん

プレゼンテーションをする塩澤康介さん

 

<はじめに>
私は、デュシェンヌ型筋ジストロフィー(以下DMDと称す)という病気を抱えて生きてきて、なぜこのような病気になってしまったのだろう、なぜ自分だけがこんなに苦しまなければいけないのかと悩み、苦しんできた。そんな中で、私は希望をもって生きることができるようになった。私がなぜそうなったのかを、私の人生を振り返りながら述べていきたいと思う。

 

<人生で輝いていた時期>
私が、DMDだと医師から言われたのは、2歳のときだったそうだ。私の歩き方が変だったため、母が私を病院に連れて行き、病気が発覚した。母もショックを受けたそうだ。
DMDは、急速に症状が進行するわけではなく徐々に進行していく。私が小学校低学年になるまで、ほとんど病気が進行することはなかった。そのため、あまり不自由のない暮らしをしていた。今のように、車いすに乗っているのではなく、自分で立って歩くことができていた。周囲の子供と違うところは、一人で立ち上がるのが遅いことと、走れないことぐらいだった。トイレや着替えなど身の回りのことはできていたので、私は健常な子供と同じ生活をしていた。保育園では、他の子供と鬼ごっこなどをして活発に過ごし、保育園に行っていない日には、よく一人で外に行き、近所の子供の家に泊まりに行って遊び、本当に普通の生活をしていた。
今、考えてみると、あのころは 肉体的にも精神的にも一番良かったころで、私の人生で輝いていた時期だった。そのころの私は、自分自身が病気だということに全く気づいていなかったし、自分は周囲の子供とは変わらない普通の子供だと思っていた。小学校に入ってからも、私は周囲の子供と同じ普通学級で過ごしていた。障害児が通う特別学級もあったが、まだ私は特別学級には入っていなかった。私は特別学級の子供たちを見て、自分とはあまり関係のない子供たちだと思っていた。自分が特別学級に入るなんてことは、夢にも思っていなかった。

授業が終わって、仲間たちとお出かけ

授業が終わって、仲間たちとお出かけ

 

<病気の進行、まわりと異なる自分>
だが、小学校2年生あたりから、自分は周囲の子供よりできないことが多いのだと気づくことがあった。体育の授業でなわとびがうまくできなかったり、周囲の子供はスキップができるのに 自分はできなかったりしたことだ。なぜ周りの子供はできるのに自分だけできないのだろうと、嫌な思いをしていたのを覚えている。
私が3年生になったころ、一人で歩くことができなくなった。誰かの手伝いがなければ歩けなかったため、特別学級に入ることになった。しかし、すべての授業を特別学級で受けるわけではなく、体育以外の授業は普通学級で受けていた。特別学級に入るのに抵抗はあったのかというと少しはあったが、なにしろ幼かったので流れのままに身を任せていた。特別学級の先生の手につかまりながら毎日歩いていたのだが、だんだんとそれも疲れて車椅子に乗っている方が楽だと思うようになった。歩くのは疲れるから車椅子に乗りたいと喚いていたときもあった。今の車椅子生活を思えば、まだ歩けていた分がんばって歩いていた方がよかったと思っている。
4年生になってから私は、本格的に車椅子に乗るようになった。自分用の車椅子を作った。そのころから、もう立って歩くことは、手伝いがあったとしてもできなくなっていた。車椅子の乗り降りやトイレに行く時などは、抱っこしてもらっていた。着替えもできないので、全て母に介助してもらっていた。車椅子に乗るようになってから、活発に外出することはなくなった。休みの日は家で過ごすことの方が多くなっていた。思い返せば、もっと友達と遊んでいればよかったと思っている。それでも、学校では比較的活発に過ごしていた。休み時間には、周囲の子供たちに混じってドッチボールをしたり、鬼ごっこをしたりと楽しんでいた。
5年生になると、車椅子を操作するのが難しくなってきたため、電動車椅子に乗ることになっ た。手動の車椅子の時は自分で漕ぐのが大変だったので、動ける範囲は限られていた。しかし、電動車椅子になってからは自分で動ける範囲が広がり、とてもうれしかった。少しだけ休みの日も活発になっていた。

仲間たちと焼肉パーティー

仲間たちと焼肉パーティー

 

<病気で崩れる家族関係>
小学生のころは、周囲の子と同じことができていたので楽しい思い出となっているが、中学生になってからはあまり良い思い出はなかった。中学生になると、周囲の人との違いを明確に感じるようになったからだ。例えば、休み時間だ。周囲の生徒は、体育館でバスケやサッカーをしていた。みんな、中学生になって体も大きく、力もある。一緒にサッカーなどできるはずもなく、私は教室でつまらない時間を過ごしていた。自分と周囲の人との違いが歴然だった。また、体育祭もそうだ。できる競技はほとんどなく、リレーで少しの距離を車椅子で走り、バトンを渡すことをしたが全く面白くなかった。アンカーで走っている人を見て、自分もあんなにかっこいい走りをしたいと思っていた。体育祭では、皆でダンスをするのだが、私はそれを見ているだけだった。やはり自分は周囲の人と同じことはできないのだと痛感した。その反面、それでもみんなと同じ普通学級にいることが、まだ精神的には自分は健常者に近いのだと思えてうれしかった。ずっと特別学級にいて、障害のある人と仲良くしていることが、私にとっては健常者とすごく離れてしまうと思っていた。体が動かせないのは健常者とは違うが、考えることや感じることは健常者と変わりないことが自信につながっていた。
そのころの家での私は、身の回りのことを全てやってもらっていることに感謝はしていたものの、自分でできていたらどれほど良かったかと思うことが多々あった。私の家庭は、母子家庭なので、私の世話は母が全てやってくれていた。母は、仕事と家事、私の世話を一人で全部こなしていた。そうなってくると、やはり疲れは尋常ではなかったのだと思う。そして、家には私と母の二人しかいないので、母が相談できる相手もいなかったため、私と喧嘩になることがよくあった。「病気は、家族との関係も悪くするのだなあ。」と思い、本当に嫌気がさした。私は、身の回りのことが全て自分でできていたら、こんな喧嘩になることもないのにと、つくづく思った。学校に行くと、みんなこんなことはないのだろうと思い、羨ましく思っていた。しかし今考えてみると、母が世話をしてくれなかったら、まともに生活できていなかったと思うし、中学校にも通えていなかったはずだ。そう考えると、やはり母には感謝してもしきれない。中学生のころの私は、休みの日や長期休みはほとんど外出しなかった。母は外出しようと言ってくれていたが、私が断ることが多かった。外出すると、外出先でのトイレなど、母に手伝ってもらうことに気を遣うし、なにより私自身あまり外出したいという意欲がなかった。

カラオケが大好きです!

カラオケが大好きです!

 

<高校での出会い、輝いていた日々>
そして、中学校を卒業し、特別支援学校の高等部に進むことになった。そのようになったのは、普通高校だと体力的にもたないだろうという配慮からだった。私は当初、特別支援学校はつまらない所だろうと思っていた。勉強もろくにせずに、障害のある人と仲良くして過ごすのだと思っていて、特別支援学校に対するイメージは最悪だった。中学時代、周りはみんな健常者の生徒でその環境に慣れていた私にとっては、特別支援学校に行くことは本当に嫌だった。しかし実際に入ってみると、悪いイメージは崩壊した。普段の勉強については、知能などをもとにグループ分けされていた。重症心身障害児や知的障害児はその人たちのグループで過ごし、勉強がしっかりできる人にはきちんと高校の教員免許をもつ先生が授業を教えるという形になっていた。私が入った年は、大学進学を目指す人が他に数人いて、進学のためのグループがあった。私は、自分と同じように、知的、精神に障害をもたない人たちが他にもいたことに安堵した。進学を目指してがんばろうと思えた。
特に、特別支援学校のイメージが覆ったのが担任の先生との出会いだった。英語の先生で、とにかくテンションが高く、静かなときがないのだ。くだらないことを生徒に言うし、かと思えば とても熱血なのだ。特別支援学校にこんな先生がいるのかと驚いた。鈴木先生というのだが、鈴木先生の学級では楽しいことしかなかった。ホームルームでは、毎週のようにケーキを食べた り、学校の近くの飲食店に行ったりと、食べることがほとんどだった。また、鈴木先生はさまざまな楽しみを教えてくれた。「マキシマム ザ ホルモン」や「サンボマスター」といったバンドを教えてくれた。鈴木先生はよく私に、「康介、楽しんで生きろ」と言っていた。鈴木先生といる日々は輝いていた。鈴木先生が楽しいことをしてくれていた真意が、後に分かることになる。

鈴木先生と音髭2014!

鈴木先生と音髭2014!

 

<病気を知っての絶望と希望>
私が自分の病気について知ったのは、高校2年生になったころだ。家でたまたま高校に提出する書類を見ていたのだが、その中の私の障害の欄のところに、DMDと書いてあった。すぐに、インターネットで調べて驚いた。20歳までに死ぬ病気で、治らないと書いてあったからだ。自分の目を疑った。それまで、自分の病気はそんなに重くなくて、いつかは治ると思っていた。それが治らないし、20歳で死ぬと知り、あと3年しかないのかと絶望的な気分になった。私は、すべてのことがどうでもいいと思うようになった。勉強にもやる気が出なくなり、周りの人を傷つけるようなことをすることもあった。先生も手がつけられなかったはずだ。さまざまな先生に怒られていた。
そんな中、生徒会長選挙があった。私は1年生のときから、生徒会に入りたかったので 選挙に出ることになった。その時は、素行がよくなかったのにも関わらず、よく出たものだと今では思う。だが、選挙で演説をすることが決まってからも、あまり良くない行動ばかりしていたので、自分で、もうこんなことでは、選挙に出ても駄目だと思い、演説前になって選挙に出たくないと先生に言った。先生からは、「あなたのその勝手な判断で、推薦人にどれほど迷惑がかかると思っているの。やめるのなら推薦人に謝りなさい。」と言われた。演説の時には、同じ学級の人が一人、推薦人になって、一緒に演説をすることになっている。推薦人は私のために、一生懸命演説をしようとしてくれていた。その時、先生に言われて、やっと、高校に入ってから、 自分が今までどんなに周りの人に迷惑をかけていたかを実感した。私は、こんな自分は変えなきゃいけない、生徒会長になって変わろうと思い、演説をやり遂げようと決心した。私は演説で、自分はこれまで多くの人に迷惑をかけてきて、こんな自分を変えるために生徒会長になりたいと正直に伝えた。そして、全校生徒に、私の思いが伝わったからか選挙に当選し、生徒会長になることが決まった。私は、生徒会長になってがんばっていこうと思っていた。

仲間と一緒に花火を楽しむ

仲間と一緒に花火を楽しむ

 

<入院、病気の進行>
しかし私は、高校3年生になった初日に肺炎で入院することになってしまった。DMDは進行すると、肺の筋力も弱まっていく。そうなると、風邪を引いた時に、痰を咳などして自力で出すことが難しくなる。そのため、風邪を引くと重症化しやすく、肺炎になりやすくなるのだ。
私の病気は着々と進行していた。最初は医師からも、軽い肺炎だからすぐに退院できると言われた。 ところが、私は急に息ができなくなり、人工呼吸器を喉に挿管することになった。私は、そんなことになるなんて全く思っていなかった。眼が覚めるとそこは集中治療室だった。口には人工呼吸器の管が入っていて、うまく話すことができない。ご飯や水を口から摂取することができず、鼻からの経管栄養で栄養を摂取していた。あの時は、ずっと寝ていることしかできなかったので一日一日が長く、体も苦しくて最悪な状況だった。それが1ヶ月続いた。鈴木先生や他の先生方が 時折見舞いに訪れて、励ましてくれた。見舞いの人が来てくれることだけが、唯一の楽しみだった。
集中治療室にいた1ヶ月の間、私は気管切開をした。そのおかげで、口の中は楽になったが、気管切開をすると声が出なくなるので話すことはできず、相変わらず食事もできなかった。 1ヶ月間集中治療室にいた後、普通病棟に行くことになった。そのころになると、だいぶ体の調子はよくなっていたが、人工呼吸器なしでは自力で呼吸することはできなかった。
普通病棟に移動してからは自力で呼吸ができるように、人工呼吸器で送る空気の量を毎日少しずつ弱くしていった。私の呼吸機能もだんだん回復していき、ついに人工呼吸器なしで呼吸できるようになった。 人工呼吸器を外し、代わりに気管切開した部分にカニューレという蓋を付けてもらった。それでも、まだ声は出なかった。声が出ないので、なかなか母や看護師さんに自分の意思が伝わらず大変だった。しばらくしてから、スピーチカニューレというものを付けてもらい、やっと声が出せるようになった。声が出ることはこんなに幸せなことなのだなと実感した。人工呼吸器を外せるようになってからは、車椅子にも積極的に乗るようになった。座る姿勢にも慣れてきて、体力もついてきた。そして、食事もずっとできていなかったが、毎日嚥下のリハビリテーションをし て、6月の終わりころにペースト状のものからであるが、ご飯を食べられるようになった。それまで、本当にご飯が食べたくて仕方なかったので、ペースト状のものでもおいしく感じられた。
普通病棟に移ってからも、鈴木先生はよく見舞いに来てくれた。また、同じクラスの人たちとも一緒にお見舞いに来てくれたことが一番うれしかった。

高校の同窓会に参加

高校の同窓会に参加

 

<DMDの現実>
7月になり、柏崎の国立病院に転院することになった。柏崎の病院には、DMDの専門病棟があるので、専門の場所でもう少し療養することを薦められたからだ。
私は、そこでDMDの現実を知ることになった。筋ジストロフィー専門の病棟、通称筋ジス病棟というのだが、そこでは、私と同じDMDの患者さんが大勢いた。私が印象的だったのは、ベッドに寝たきりで人工呼吸器をずっとつけながら、パソコンをしている人が多かったことだ。私は、寝たきりの人が多いことに驚いたし、やはりこれが現実なのかと思った。ベッドに寝たきりの人とは別に、私と同じように車椅子に乗って生活している人もいた。自分と同じく車椅子に乗っている人もいる、寝たきりの人だけではない、そのことに安心した。そして、なにより安心したのは、車椅子に乗っている人たちが20代前半だったことだ。私がインターネットで見た情報では、20歳で死んでしまうと書いてあったのでショックを受けていたが、私の目の前に20歳を過ぎても生きている人がいる、まだ生きられると安心した。20歳で死んでしまうのは昔のことだそうで、今は医療技術も進んでいて、人工呼吸器を使って肺や心臓に負担をかけなければ、少しは長く生きられるそう だ。
筋ジス病棟で患者さんが使っていた人工呼吸器は、私が新潟の病院で使っていたものとは違い、とてもコンパクトで持ち運びしやすいものだった。ここでの人工呼吸器は、呼吸を補助する役割があった。ずっと付けていなくても、夜だけ付けていればいいということだった。この人工呼吸器なら使いやすいし、これで長く生きられるんだ と安堵した。これは知ってよかった現実だった。そしてもう一つ、知らなければよかった現実、というより受け入れなければいけない現実があった。先ほど、寝たきりで人工呼吸器をつけながら、パソコンをしている人たちがいたと述べたが、その人たちは20代後半だった。いつかは寝たきりになり、人工呼吸器を夜だけでなく常に付けていなければならない、というのが現実だった。コンパクトな人工呼吸器だが、それでも常に付けることには抵抗がある。それに加え、なにより寝たきりになるのが一番嫌だった。自分も同じようなことになるのが嫌で仕方なくて、毎日未来の自分のことを考えるようになった。

酒を飲みながら、男同士の語らい

酒を飲みながら、男同士の語らい

 

<悔いのないように生きる>
私は鈴木先生のことを思い出した。鈴木先生が積極的に、私に楽しいことを教えてくれたり、楽しいことを企画してくれていたことを思い出した。鈴木先生は、私の病気のことを理解していて、病気が進行して動けなくなってしまう前に、少しでも楽しい思い出を作って欲しくて、さまざまなことをしてくれていたのだ。鈴木先生は、「悔いのないように生きていて欲しい」と言っていた。鈴木先生のありがたみを感じた。鈴木先生のその気持ちを考えると、まだまだ諦めて悲嘆しているわけにはいかないと思った。
だが、その時の私にはまだ一歩を踏み出す勇気がなかった。 退院のことを、医師や看護師と話すことがあった。私は、今までとは異なって、気管切開していて吸引もするようになり、人工呼吸器も付けるようになったけれども、家に戻って生活をすることに大きな不安があった。それ故、柏崎の病院にずっといてもいいやと思うようになっていた。 そんな時母から「病院にずっといても楽しいの?」と言われた。その言葉が私の中で響いた。確かに、病院にずっといてもだらだらと日々を過ごすだけだし、何も成せることはない。自分に、そんな人生でいいのかと問いかけた。その結果「こんなところで、終わるわけにはいかない。」 そう思い、新潟に戻ることを決めた。
その後は、病院にいる相談員の方や新潟市社会福祉協議会の相談員の方に家での生活のことを相談し、ヘルパーさんを利用したり、訪問入浴を利用できるようにしてもらった。私は柏崎での入院生活から、DMDを受け入れることができた。目を背けたくなる現実もあったが、それでも悔いなく生きてやるという気持ちになった。柏崎に行っていなかったら、現実を知った上で DMDを受け入れることはできなかったはずだ。試練の入院生活だったが、得たものは大きかったし、成長できた。

サークル顧問の先生のお宅でパーティー

サークル顧問の先生のお宅でパーティー

 

<自分の可能性を証明する大学進学>
新潟に戻り、春からまた特別支援学校に通えることになった。2回目の高校3年生だ。留年するというのは、特別支援学校ではありえないことだったのだが、鈴木先生と校長先生が大学への進学のためにと、助けてくださり留年することができた。鈴木先生と校長先生がいてくれたからこそのことだ。お二人には本当に感謝している。
学校がはじまってからは、鈴木先生の悔いなく生きて欲しいという気持ちに応え、とにかく楽しく生きていこうと決心した。移動支援を使って、今まで行くことがなかった場所にも積極的に足を運んだり、鈴木先生とバンドのライブに一緒に行くようにもなった。ほとんど毎週遊びに出掛けるようにもなり、友人たちと楽しく過ごし、再び私の輝く日々がはじまった。
私は今、大学に通っている。付き添いの治さんや友人たちと出会い、まだまだ自分には可能性があることを実感している。私は今後、DMDでも健常者の人と同じように可能性は広がっているということを、私自身の存在で証明していきたい。また、DMDのことを少しでも多くの人に伝えて、理解してもらえるようになりたい。
最後に、この文章を読んでくださった皆さんの心の片隅でもいいので、DMDの人がこの世界にいることを心に留めていて欲しい。そして、これから先、もし皆さんが、DMDや、それ以外の病気で思い悩み、人生を悲観している人と出会う機会があった時、悔いなく生きること、病気があっても可能性は広がっていることを伝えてあげてください。私に希望を与えてくれた母や鈴木先生のように、今度は皆さんが希望を与える人となってください。

(共生社会学科2年 塩澤康介)

塩澤さんの話を聴く学生たち

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