チャペルのひびき

要らない存在などはない

京都の龍谷大学よりJohn Dougill先生をお招きし、「隠れキリシタン」に関するご講演を金山先生の素晴らしい通訳を通して伺うことができました。厳しい弾圧と禁制の中を命を賭して信仰を保ち続けたキリシタンの存在を、ご著書を通じて世界に紹介してくださる先生のお働きに敬意と感謝を覚えます。それに先立つチャペルにおいては、使徒パウロがギリシャのコリントの教会に宛てて書いた手紙を通して学ぶ時を持ちました。力ある者、優れた者だけが幅を利かせ、小さき者、弱き者の存在がなおざりにされていく傾向をもつ教会共同体の在りさまに、キリストの心とは最もかけ離れたものとして、パウロは明確に否を唱えました。パウロにとり、共同体とは、一つの体のようなもの。多くの部分(肢体)があり、その部分はどれも異なるも、いらない部分など一つもない。弱い部分、見栄えの悪く見える部分があろうとも、むしろそのような部分こそが、体全体を固く一つに結ぶ要なのだと訴えるのです。「不要な存在を国家に代わって始末する」として起こされた相模原のあの事件に対して、明確な否を発することのできない私たちの国家にとって、また私たち自身の心にとって、このパウロの語りかけは今もなお(今だからこそ)深い重みをもっています。(下田尾 治郎)

Ⅰ.チャペル・アワー 
説教 「いらない いのち?」 宗教部長 下田尾治郎 先生
20160114チャペル・アッセンブリ・アワー1

Ⅱ.アッセンブリ・アワー
講話 「In Search of Hidden Christians」 龍谷大学教授 John Dougill 先生
20160114チャペル・アッセンブリ・アワー2

<参加学生の感想>
感想1) 自分が知らない場所で起こった歴史ある所が、写真を見て話を聞くことで、歴史が少し分かった気がしました。宗教について深く知る機会は、キリスト教学以外では全くなかったのでとても興味深かったです。歴史をたどって日本を見てみるとキリスト教徒を悪く思っていた時代もあるのに、今こうして自分がキリスト教の大学に通っているのは不思議な感じがしました。
感想2) ジョン先生が話してくださった「隠れキリシタン」は、日本史で必ず習うことです。私が「隠れキリシタン」について知っていることは、考えてみるとあまりなく、日本のことなのに、と少し恥ずかしくなりました。秀吉や徳川幕府はさまざまな手を使って、キリスト教徒を迫害しましたが、どういった思惑があるかは知りませんでした。ただ単に「異質なものだったから」だろうと思っていました。隠れキリシタンは、そのさまざまな迫害に屈せず、代用品を使い、キリスト教を信仰しつづけました。バレたら殺されるという恐怖に負けず信仰し続けるのはずごいことだと思いました。
感想3) 本当の幸せとは何なのかというものを考えさせられました。国だったらたしかに、国力をつけることが必要かもしれませんが、美しい国になるには弱いものと共に歩むことが大切だと思いました。障害をもった人は、国の役に立たないとかいう目前のことにしか目を向けられないのは愚かだと思いました。人には必ず生まれてきた意味があると私は信じています。