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「いま、リベラルアーツ教育とは」

敬和学園大学長 新井明

1932年、茨城県生まれ。
内村鑑三スカラーとして、米国アーモスト大学を卒業後、ミシガン大学大学院修了。帰国後名古屋大学、東京教育大学、大妻女子大学、日本女子大学で教育・研究に携わる。
敬和学園大学では、多忙な学長業務に加え、学生と直接、対話する場を持ちたいという思いから、「文化・文学比較論」の授業も担当している。
文学博士。日本女子大学名誉教授。

大学激動の時代

いま大学は、激動の時代を迎えている。以前から言われてきたことではあったが、いよいよその時代に入った、の思いが深い。その逆風を、最もきつく受けているのは、学部で言えば文学部であろう。この5年間で一割以上の減少をたどり、現在は90学部台であるという。この傾向はさらに急速に進むことであろう。東京都立大学の改組は、その象徴的事件であると言えよう。
大学の学長クラスの人士の中でさえ、例えば文芸作品を教室でゆっくりと味わうなどの作業は、現代の大学での教育ではない、と明言する方々がいる。そうだろうか。古典に属する作品に溜まっている人間の知恵とか情緒とかが、全くわからなくなったならば、またそのようなものはわざわざ読み解くことはない、というような風潮が支配するようになったなら、「現代」は即「闇」と化すことは明白なのだ。生きる人間の価値を無視しても、この世での効率を万事優先させようという主張が、その背後にうごめいているからである。

戦中教育、そして戦後教育の誤解

かつてこの国は、大きな戦争をいくつも戦った。欧米諸国に比べて近代化に後れをとったこの国が、開国後、一日でも早く先進諸国と肩を並べることができるようになるには、まず軍事大国となり、近隣諸国を植民地化し、国内生産力を高め、東洋の雄としての地位を確立することが第一であると、この島国の政治指導者層は考えた。この日本中心主義を確立するという目的のためならば、(他国を含めての)人間とその文化の犠牲などは、第二、第三の問題として、脇に押しやった。その歩み方は徹底していて、みごとと言うほかなかった。小学校はなくなり、それにかわり、天皇のための「小国民」を育成する国民学校ができ、「教育勅語」を暗唱させた。『万葉集』を教えても、「防人(さきもり)の歌」が中心であった。その「小国民」の理想的人間像は天皇を守る「醜(しこ)の御楯(みたて)」となることであった。青少年を国策貫徹の線に立って教育した。そして迎えたのが1945年の敗戦であった。

もう10年以上も前のことになる。かつて日本私立大学連盟の学生部会の仕事として、『現代学生部論』(1989年)、また『新・奨学制度論――日本の大学教育の発展のために――』1991年)などの編集・執筆に携わったことがあった。その過程で、太平洋戦争敗戦直後、第一次米国教育使節団が日本の教育関係者たちに残した報告書を綿密に読んだ。
報告書は、「大学は第一に、知的自由の伝統」に立つべきであって、「職業的及び技術的教案」以前に、「普通教育科目を自由に取り入れるべきである」と述べ、大学は若き人格の個性が自由に成長してゆくのを助ける、いわば「助育」の場であると規定した。いまから見ると、日本語として熟していない表現であるが、ここで言っているのは、「普通教育」「自由高等教育」、つまり個人の知的・人格的発展を目指すリベラルアーツ教育の勧告であった(戦後の「教育基本法」は、この勧告の精神を生かした、いわば教育憲法であった)。
日本の教育界はその後、この勧告の真意を理解することはなかった。あるいは、理解することを避けた。そして、一般教育課程(前半2年)+専門課程(後半2年)という形の大学教育の勧告としてこれを受け取り、その後の新制大学の制度上の基盤を固めた。その結果、一般教育課程は専門課程の前段階、あるいは一段と低い教育課程だと理解され、“パンキョウ”などと蔑視されるような事態を引き起こした。「専門」にしか目の届かないような型の人間類型をつくりあげてしまっては、それから先の社会は専門バカの支配する社会になる。
いまの日本はその典型である。業界でも、官界でも、政界でも、己の特殊分野にのみ徹していて、そのほかに目を向けることはせず、他人が己の世界に口をさしはさむことは許さない。己の世界が全世界であって、その世界にはそれぞれの君主がいる。ドンがいる。これでは、各組織の中にしか生きることのできない者たちは、いわば奴隷的な生き方を強要される。各組織では、そのしでかした悪やウソは、徹底的に覆い隠そうとする。組織のためならば、いかなる虚偽も許されると思われている。組織のためならば「個」がつぶされていってかまわない。
いま求められているのは、この閉塞的社会体制を内から突き破るほどの力を蓄えた人材である。それこそ、真の意味での「即戦力」として役立つ「人材」であるはずである。そして、この「人材」の育成こそは(時間のかかることではあるが)、リベラルアーツの教育、つまり「普通高等教育」の仕事なのである。ただ問題は、この教育は国立大学では、たとえそれが法人化されたからといっても、急には無理であろう。敗戦後の米国教育使節団の勧告を真摯に受け取って、教育の現場に生かす努力をこの国は、戦後60年にわたって実践してこなかった。そのつけは、いまに至って生きている。

リベラルアーツが育てるもの

筆者は長く英文学科の教授を務めてきた。卒業生の中からは当然ながら、英語・英文学の専門家が出、英語教育や、英語を使う業種で生きてきた人物が出た。しかし、それが大半なのではない。おもしろいことに、卒業時には、学生たち自身でさえ、まさか将来自分がそのような業種に携わることになるとは想像だにしなかった方面で活躍している者が多々いる。
銀行業務に入った女性が、その銀行の研究部門に籍を置き、最近は『失われる子育ての時間』(勁草書房)などという本を出した。その「あとがき」の中で、「大学時代の恩師である新井明先生には、文学部の人間として、 経済学などの議論では取り上げられない問題に目をむけることの大切さを教えていただいた」と記している。また別の卒業生で、はじめは東京の外国系銀行にいたのだが、九州・湯布院にほれ込み、いまはそこに住み、その土地の発展のために尽くしている人物がいる。最近、町会議員に推されてしまったと書いてきた。華道・小原流の師範となり、その方面で活躍している者もいる。ロシア文化に興味をもち、一時モスクワにいたが、いまは日本でその紹介に生涯をかけている者もいる。税理士を始めた者もある。沖縄の民謡に深入りして、いまでは沖縄に住み、島唄の歌い手となった女性もいる。また、極真流空手道場を開いて子どもたちの育成に励んでいる婦人もいる。
これら旧学生たちに共通していることが一つある。それは、文学部の学生時代に英文学上の作品――詩とか小説とか――を、ゆっくりと一年をかけて読み、味わい、その結果をぺーパーに仕立てて、学窓を巣立った者たちだということである。人文学的雰囲気の真っただ中で、人間の喜びや悲しみを、言葉を通して味わい取り、感動し、人間の尊さを知った、学んだ、という若き日の人生体験が、彼らのその後の歩みに豊かさを与えたのだ、というほかはない。この若者たちは、英文学の勉強を通して、いわゆるリベラルアーツの教育の美点を身につけたと言っていい(ここで、誤解のないように付け加えるのだが、リベラルアーツ教育は、なにも人文学に限られるものではない。それは人文・社会・自然の各分野を超えた教育の基本理念・基本姿勢なのだ。筆者は人文学なので、たまたまその具体例を知っているにすぎない)。

敬和学園大学が目指すところ

『暮しの手帖』という雑誌がある。その表紙裏に一編の詩が載っている。「すぐには役に立たないように見えても/やがて こころの底ふかく沈んで/いつか あなたの暮し方を変えてしまう/そんなふうな/これは あなたの暮しの手帖です」
大学教育のことを考える際にも、多くの示唆を与えてくれる詩文である。新奇な、便利な、効率のいい、もの珍しく、てかてかしたもの――そのようなモノ、また人間が、本当の人間の生活に幸せを送り込むものであろうか。「こころの底ふかく沈んで」、しかしその出番を待つ分厚い「教養」が、やがてわれわれの「暮し方を変える」ことになるのではないか。それは、“パンキョウ”とは異なるものだ。
リベラルアーツ教育の目指す教養主義教育・全人教育は、しかし、日本の大学のすべてにおいて行われているものではない。それは主に、キリスト教主義を掲げる私立大学の仕事となっている。多くのキリスト教主義の私立大学は、経営難の現実にも屈せず、建学の精神――その基本は「神に仕え、人に仕える」の精神――を掲げて、その達成に使命を抱きつつ歩みゆく。彼らは真の教育とは何か、という課題をめぐっては、旗幟(あるいは、反旗)鮮明、迷うところはない。歩みゆくその姿は、この国の教育の荒野にひと筋の道を残している。

本稿は『大学時報』299号(2004年11月)所載の文章であるが、日本私立大学連盟の許可を得て、ここに再録する。