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3代目学長 鈴木佳秀 就任インタビュー

聖書との出会い

-まず、学長の経歴をお聞かせください。
熊本で生まれ、父の仕事の関係で転々としました。子どものころは工学志望でした。本田技研が自転車に小さなエンジンをつけたものを開発していました。オートバイの前身ですが、日がなそれを眺めていました。そういうことをやりたかったのです。
高校時代、福岡で被爆者の牧師に出会いました。両手の肘から先がやけどで覆われたこの方が、ある時、広島での被爆の体験を軸に、神の愛について説教されました。原爆で家族を失ったにもかかわらず、「神は愛なり」と語る牧師に仰天しました。とても理解できないと思いました。だから彼の話に惹きつけられたというか。この衝撃の体験から、この牧師を理解するにはどうすればよいのかを考えました。新約聖書から言葉を引いていたので、そこに鍵があるかもしれないと思い、大学浪人時代は旧・新約聖書を何遍も読みました。そのころ読んでいたのが、聖書と内村鑑三(無教会派を始めた伝道者で思想家)でした。

-旧約学を研究対象にされたいきさつは?
旧約聖書をやるきっかけはマックス・ウェーバー(ドイツの社会学者)の『古代ユダヤ教』との出会いでした。もとが理系でしたから、文芸評論なんかは信頼できなかったわけです。それがウェーバーを読んで、社会科学には法則性があるということを発見しました。それまでカール・バルト(ドイツの神学者)などの神学書は読んでいましたが、どちらかと言うと、それは聖書を守る立場からの研究でした。新約は初めから答えが与えられているような気がしましたが、旧約は答えがなくて面白いと思いました。そのことと「ヨブ記」と、そして例の牧師が重なったのです。
そのころ、故関根正雄先生(元東京教育大学教授。日本を代表する旧約学者で無教会の伝道者)によるヘブライ語の夜間講座に行きました。内村の最後の愛弟子ということは知っていたのですが、不思議な出会いでした。新井明前学長も関根先生のお弟子さんで、新井先生と初めてお会いしたのは、関根先生の伝道50周年の講演会の時でした。
学生時代は全共闘時代で大学4年間に5回全学ストがありました。まともな教育を受けていないんですよ。勉強は独学で、しかも喫茶店でやりました。大学院時代も3回全学ストがありました。私はエリートコースからはずれていたので、予備校の講師になるか、教員免許を取ろうと思っていたころ、中川秀恭先生のもとで非常勤の助手をしていました。昼に一緒に食事をするという役目でした。「君、どうするつもり?」と聞かれ、予備校の講師になるつもりだと言ったら、お弁当を脇に置いて「学問をあきらめちゃいけない」と懇々と説教されました。恩人の一人です。「私にそんなことできるのか」と思っていたら、別の先生から留学を勧められました。指導を受けたいと思ったドイツ人のクニーリム先生がたまたまカリフォルニア州のクレアモント大学院で教えておられ、手紙を書いたのですが、数ヶ月返事がこなかったんですね。あきらめたころに返事がきて、「実はハンブルク大学に戻る予定だったが、クレアモントに留まることになったので、ぜひ来なさい」と言ってくれました。1976年のことです。関根先生でも説明できないという「申命記」の数の交替現象の問題を研究したかったのです。
クニーリム先生がどうしてドイツに戻れなかったかを後で教えてくれました。5人のお子さんのうち下の3人がアメリカ育ちで、ドイツに行きたくないと言ったため、ハンブルク行きを断念されたそうです。それで、先生は万感の思いで私を迎えてくれたんですね。ついては「申命記」の一番難しい問題をやれと言われました。博士号を取得して、バークレーの大学院に職を与えられた時に、関根先生から新潟大学で人を求めているという国際郵便が届きました。クニーリム先生ご夫妻は、泣いて送り出してくださいましたね。

「カタ」を学ぶ

-そこから新潟大学に着任されたのですね。
新潟大学で迎えてくれたのが故安藤弘先生(古代ギリシャ史専門。本学開学当初の一般教育主任)でした。就職の条件が一緒にホメロスを読むことでした。「学生の目線で講義しなさい。あとは何をやってもよい。専門を教えてもよい」と言ってくださいました。最初は本当に自由で楽しかった。授業は試行錯誤でしたね。「オリエント史」を講じてくれと言われたのですが、通史をやったことがなかったので、神話から通史、考古学とやっていきました。十数種類の講義ノートを作り、1冊本を翻訳しました。それにホメロスもね。それが全部その後の論文の肥やしとなりました。

-読書会もやっていたそうですが。
それまでの学生生活を全部償う気持ちで、教育に情熱をかけました。学生の要望に応えて、教養部の1年生と一緒にヘーゲルやウェーバーなどを読みました。歴史の授業に飽き足らなかったのでしょうね。学生は面白がってくれて、大学時代の思い出になったようです。

-この時代、様々なプレッシャーで行き詰っている若者たちに、哲学という学問が力になってくれるとよいと思いますが。
教養教育が大学教育を決めると思います。教養はこれまで教えるものとしてしか捉えられていませんでした。フランス、ドイツなど各国で教養教育をどうしているかを調べ、最終的に「カタ」を学んでもらうということが一番大事だと思うに至りました。「カタ」は知識ではなく、躾を含め、人付き合いにもすべて当てはまるものです。歌舞伎役者はまず「カタ」を学ぶ。それを発展させて舞台で演じると聞いて、教養教育も同じじゃないかと考えました。読書会で一緒に学ぶ場合、どうしても自分の専門で攻めようとするくせがありましたが、聴く姿勢を学生たちから学びました。研究者として苦労している姿を学生に見てもらう。一緒に学ぶ。寺子屋式に教えるのではなく、我々の持っている価値観と学生の持っている価値観を交流させることが大事なのです。スポーツでいえば、サッカーでは個人プレーが光りますが、ラグビーはそうではないです。チームワーク中心のラグビーの方が教育と重なるように思います。体と体でぶつかりあいながら、ボールを後ろにパスするというのがたまらない魅力です。

-先生はラグビーをなさっていたんですね。
大学時代にやっていました。今はジョギングをしています。東大の先生が私のお腹を見て、走るように勧めてくれました。3ヶ月走ったのですが、全然効果がなくて。私に原因があるのかもと思って調べた結果、私にとって別腹であった2品目をやめました。そうしましたら1ヶ月で3キロ痩せました。私はもともと理系なものですから、原因を突き止めようとして、その2つを復活したらまた体重が戻ってしまいまして。その2つをやめて走っていると、結果的に15キロ痩せました。ジョギングの他にも、山登りが好きです。本当は学生諸君と一緒に登りたいです。新大の山登りの仲間とは、研究面でもコラボレーションしたりしています。

社会を支える「人」づくり

-教養教育とリベラルアーツは同じものですか?
重なってはいますが、ぴったり一致するわけではないのです。日本は、平均的知的レベルは高いのですが、アメリカは個人差が大きい。アメリカの大学では音楽のト音記号の書き方から教えていたりするのです。ABCから教えて、しかしそれが積み重なってすごい人が生まれたりするわけです。機会均等がアメリカの民主主義の考えです。彼らは学生たちをどうやって平等に扱うかを常に考え、機会均等を制度的に実現しようとしています。それでも堕落するなら自己責任ということです。それがアメリカのリベラルアーツ教育です。日本は、日本型のリベラルアーツ教育をやればよいわけです。アメリカのような潜在能力を引き出す教育をどうやるかがわたしたちの課題ですが、答えはないのです。同じやり方を踏襲する必要はないのですが精神は同じです。自己責任を教える。それが「カタ」と考えています。

-就職活動中、技術系の会社に「英文学をやってきた」と伝えると、「仕事には役立たないな」と言われたという学生に、「そこがよいんじゃない」と話したことがあります。
そこが大事なのです。技術屋だけじゃ日本は10年で終わりだと言われます。技術職から大学教員に転職した同僚が、会社で技術者をたくさん雇っても、40歳くらいまでしか役に立たない。人間的な訓練を受けてこなかった人は使えないと言うのです。たこ壺でやって来た人は人間とどう接していいかすらわからない。教養は人間として欠くべからざる要素だと。理系と文系のコラボレーションがやりたいと言っていました。彼が言ってくれたことは私にとっては大きかったですね。

-新潟は実学志向が強い所です。どうすれば教養教育を理解してもらえるでしょうか。
人づくりに命をかければ確実に生き残れると考えています。どういう人間を育てるか、です。そこにはいささかも迷いがない。敬和が教養教育に一生懸命になっているところに希望があると思います。人間形成をしなければ、介護の世界でもよい仕事はできない。すれっからしの介護人だっている。プロはいる。けれども輝きのないプロもいっぱいいます。「人」が現場を支えているのです。

誰かのために生きる

-先生の教育観を教えてください。
「何かのために生きる」のではなく「誰かのために生きなさい」が私の教育観です。 教えてくれたのはマザー・テレサでした。人は何かのためには生きやすいのです。財産とか趣味とか。しかし誰かのために生きるには必ず自己犠牲が伴います。「誰かのために生きる」という道を選択するならば、自分だけの世界に閉じこもることはなくなるはずです。常にその人のことを思い、配慮し、その人にとって何がベストなのかを考え始めるからです。そのための知恵や知識が必要となります。そうした生き方を共有できるのは、教室だけではなく、雑談や飲み会だったりと、実際の日常生活の場が教育の実践の場となり得ます。

-どうもありがとうございました。