学長室だより

R.M.ハッチンズの生涯と教育哲学

大学の周りのコシヒカリの美田は、刈り入れ直前の黄金の実りに耐えかねて稲穂の頭が垂れ、新学期が始まる前の静寂さに包まれ、「輝かしい光景」(glorious scenery)を見せています。
20世紀のリベラルアーツ教育に多大な貢献をしたロバート・メイナード・ハッチンズ(1899-1977年)に関する重要な本が昨秋に出版されました。鶴田義男著『ロバート・メイナード・ハッチンズの生涯と教育哲学』(近代文藝社)です。460頁の大著で、「ハッチンズの生涯」「ハッチンズの教育哲学」「ハッチンズ教育哲学の評価」の三部で構成されています。
ハッチンズは1930年に30歳の若さでシカゴ大学の総長に就任し、総長として20年間にわたり、リベラルアーツ教育による教育改革などを推し進めました。戦時中は副大統領候補にも名前が挙がり、シカゴ大学総長を辞めた後は、『ブリターニカ百科事典』の編集長を務めました。
「グレート・ブックス」というヨーロッパの古典180冊を10年間で読むリベラルアーツ教育は、総長就任時にシェークスピアとゲーテ『ファウスト』とプラトンの対話編以外に何も知らないことに気付いた、自己教育から始まったものでした。実業界のリーダー研修の場であるアスペン研究所は、ハッチンズと彼の同僚のM.アドラーの指導の下で、協力者が始めたものでした。
シカゴ大学にユダヤ人研究者が多く集まっていたことで、政府の支配下でマンハッタン計画による原爆の開発が進められました。実際に投下する段になってハッチンズは原爆使用反対の嘆願書をトルーマン大統領に宛てて書きましたが、大統領の耳には届きませんでした。その後、原爆投下の凄惨さを知って核兵器に反対し、核戦争を防ぐために世界政府の樹立に尽力し、リベラルアーツ教育を遂行するために世界で最初に生涯教育/生涯学習の必要性を唱えました。(山田 耕太)