学長室だより

様々な出会いの中での選択

お世話になった先生やゼミの友人、大学院修士課程時代に院生自治会執行部を組織していた仲間など、それぞれの出会いには濃密な思い出が残っています。でも人生の分かれ道がどこから始まったのか顧みると、どちらに向かうべきかと悩んだことが、思い浮かびます。自分で決断したのですが、すべて自分で決め、自力で切り拓いてきた人生だと言い切れないことに気付かされます。分かれ道に立ったのは偶然です。ヘブライ語の夜間講座のチラシを見たときなども、向こう側から与えられたチャンスだったのです。それは決してバラ色をしてはいませんでした。アルバイトで生きている学生にとって、夜間講座の費用は手頃な価格とは思えなかったからです。おいしい話に飛びついたという記憶はありません。求めての選択という意識はありました。だから思い出になっているのかもしれません。その道を歩み始めたとき、それがどこに行き着くのか、予想できたことは一度もありません。予想できていたなら、その苦労が、重みを持つということもなかったでしょう。簡単な選択であったなら、思い出にも残らなかったはずです。
苦労は買ってでもするものだというのが母の教えですが、「アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行き先も知らないで出て行った」(ヘブル人への手紙11章8節・口語訳)という聖書の言葉を、今も思い出します。(鈴木 佳秀)