学長室だより

帰る場所もなくグリーンカードを申請

イラン事件の直後であったため、ビザの更新に際し、厳しいことを言われました。日本に帰っても仕事がないので、学生ビザから労働ビザに変更できないかと大学の事務局に相談したのです。Ph.D.の候補生になったのですから、自分の国に戻られてはどうですかと、遠回しに言われました。これから学位論文を書くのに、どうしてもクレアモントで書き上げなければと考えていましたから、衝撃でした。使用できる文献が、日本にはほとんどなかったからです。学生ビザのままでは働けません。日本人学校で教える機会が与えられそうなので、事前に日本人学校の弁護士に相談しました。グリーンカードを申請すれば、翌日から働いていいのだというのです。審査に数年はかかるので、結果が分かるまで働いていいというのです。許可が降りなかった場合は、帰国するしかない。このような助言を得て、申請を決断した次第です。土曜日だけ開講される日本人学校で教え、僅かであっても収入を得ることができたのですが、論文を執筆しなければ、何のためにアメリカにいるのかがかすんでしまいます。
申命記の謎解きという最も困難な課題を抱えていたのです。貧しいながらも生活はできるのですが、謎を解いて論文を書かないと、生活していく場所もありません。日本に戻っても、アルバイトの生活で論文を書く余裕もなくなるのは、明らかでした。必死にならざるを得ません。背水の陣を敷いた経験はこれが初めてでした。欧米の学者たちが200年も解けなかった謎を解明するのに、成功する保証はなにもありません。挑戦でした。解けなければ無に終わることを意味していました。このままで日本に帰るわけにはいかないと、決意を固めたのです。(鈴木 佳秀)