学長室だより

なぜヨシヤ王の改革と関係すると言えるのか・その2

文献資料の歴史的背景が明らかにされただけで結論を出すのは拙速です。デ・ヴェッテの論は仮説に過ぎないからです。でも彼の説が評判になると、人はそれを使って自分の論議を展開したがるのです。多くの研究者がそれを採用し解釈を展開することになったのは事実です。この流行に批判的な研究者もいましたが、デ・ヴェッテの論に従わないなら対論として独自の仮説を提示しなければなりません。文献学の世界では、それが宿命なのです。通説に従うのは容易ですが、結果責任が課せられます。通説の誤りが明らかになると、自己責任を問われる世界なのです。
注目したのが考古学における発見です。1960年にナヴェーという考古学者が東地中海沿岸にある要塞跡を発掘し、ヘブライ語で記された陶器片(オストラコン)を発見したのです。その陶器片は、王室領で強制労働に借り出された農民が、穀物の収穫量が規定より少ないからと判断され、安息日直前に上着を没収された事件を扱っていました。この農民が証人を同伴し、要塞の上官に上着の返還を求めた書簡とみなされてきました。しかしこの陶器片がヨシヤ時代のもので、要塞跡であるメツァドハシャヴィヤーフーはかつてアッシリアの属州領で、海岸にある拠点でした。そこでヘブライ語の陶器片が見つかったことは重大な事実を意味しています。私見によれば、アッシリアの属州であったこの拠点をヨシヤ王が取り戻したこと、要塞の門には書記官がいて裁判のために陶器片を作成できたこと、訴訟の内容が安息日に関係していること等が読み取れたのです。開廷を求めた訴え状に相違ありません。これを突破口に謎解きが一気に進んだのは、言うまでもありません。(鈴木 佳秀)