誰かのために生きる(3代目学長 鈴木佳秀)

なぜモーセが法典の語り手なのか・その2[2014-06-16]

旧約聖書の法は、語り手が神ヤハウェでなく常にモーセです。そのことが重要なメッセージをわたくしたちに語ってくれています。それが「神の言葉」そのものであるなら、律法は神からの絶対命令となってしまいます。それを守れない者は「神の戒め」を犯したことになり、処罰が決定してしまいます。人間的な弱さは理由になりません。二者択一から逃れられないことになってしまいます。聖書が、モーセという仲保者を媒介にイスラエルの子らに語っているのには、理由があるのです。契約を守り行う意志があるなら、モーセが語る律法に耳を傾けるでしょう。しかしその意志がないなら無視するでしょう。旧約聖書の律法は、モーセが語った神の戒めに「あなたが」聞き従うかどうかを問いかけているのです。それによって、聞き手が、救いを求めて神の言葉に従順に従う気持ちがあるのかどうかが、明らかになるというのです。王が家臣に絶対服従を命じる命令とは違います。仲保者として神と人の間に立つモーセは「私は、あなたがたとだけこの契約を結びこの誓約を交わすのではない。今日われわれと共にわれわれの神ヤハウェの前に立っている者たちと、今日われわれと共にここにいない者たちとも〔契約を結び誓約を交わす〕である」(申命記31章13節〜14節〔鈴木訳〕)と宣言しています。モーセが媒介となって出エジプトの神ヤハウェと結ぶこの契約は、モーセが生きていた同時代の人々とだけ交わすのでなく、未来の人々とも契約を結び誓約を交わすためであるというのです。時代や空間を超越して未来の世代に呼びかけたモーセの言葉なのです。それは、神の救いを信じて従順に生きる者、主体的に戒めを守る生活を送ろうとする者に、永遠に開かれていることを意味しています。(鈴木 佳秀)

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