帰る場所もなくグリーンカードを申請
イラン事件の直後であったため、ビザの更新に際し、厳しいことを言われました。日本に帰っても仕事がないので、学生ビザから労働ビザに変更できないかと大学の事務局に相談したのです。Ph.D.の候補生になったの...
イラン事件の直後であったため、ビザの更新に際し、厳しいことを言われました。日本に帰っても仕事がないので、学生ビザから労働ビザに変更できないかと大学の事務局に相談したのです。Ph.D.の候補生になったの...
クレアモント大学院で親しくなった友人に、イランからの留学生がいました。亡くなられたピーター・ドラッカー博士の下で学位論文を書いている人物でした。少しゆとりができたときなので、友人たちと野球をするように...
十科目の試験のため読んだ文献の数々を、後に新潟大学教養部での講義で使うことになるとは予想もしていませんでした。学部時代に学べなかった分をクレアモントで取り返すことができた気持ちでしたが、宗教学のために...
白紙で答案を出したことが悔しかったのは事実です。日本と異なり、アメリカの風土では、倫理学は極めて実践的で、観念論でないことを思い知らされたのです。作戦を立て直しました。類似の出題を想定し、アメリカ合衆...
日本人に聖書が分かるのかと質問する者はいなくなりました。親しく声をかけてくれる友人が増えたことも事実でした。次の試験のため猛勉強が続きます。クニーリム先生の演習は金曜日の朝8時から12時まで。コーヒー...
夏休み前に渡米したのは資料を読むためでした。宣言どおり、翌日から一日十時間の勉強を課して実行しました。関根先生の言葉を背中に、図書館にこもってメモを取りつつ文献を読みました。年に三回しか試験がないので...
一ドルが三六〇円時代でした。奨学金を貯蓄していたのですが、それらすべてを費やして渡米したのです。大学時代に学費を出してもらったので、親からの援助は求めないで飛行機に乗りました。ロスの空港でクニーリム先...
畏友秦剛平もわたくしも別々にアメリカ合衆国に留学することになったのですが、それも不思議な廻り合わせでした。関根正雄先生をお宅にお訪ねし留学が決まったことを報告しました。先生は手放しで喜んでくださいまし...
人生にはこんなことがあるのか。戸惑いもありましたので左近先生に相談に行きました。手紙を読み、何が何でもクレアモントに行かなければ駄目だと言われるのです。奨学金を手に入れることがアメリカ合衆国ではどんな...
数ヶ月も返事が来ないということは、駄目だったことを意味します。母校の関係者が、アプリケーションが受理されず、受け入れられなかったのだと言うのです。諦めた方がいいという教師もいました。そうかもしれないと...