学長室だより

ダビデの物語・ダビデの台頭史その1

サムエルが心配していたことが現実になってしまいました。度重なる不祥事のため、サムエルは死ぬ日までサウルに会おうとせず、サウルのことを嘆いたと聖書は語ります。「主はサウルを、イスラエルの上に王として立てたことを悔いられた」(サムエル記上15章35節)という言葉には驚かされます。どういうことでしょうか。イスラエルの民が王を要求した時、わたしを退けているのだとサムエルに語りながら、民の要求をいれる形で、神はサウルを選び出したからです。
旧約聖書の人間理解を前提しないと、こうした言葉を理解するのは難しいかもしれません。人間は神のかたちに似せて創造されたというのが基本ですが(創世記1章27節)、エデンの園の話にあるように、人間は自由意志に基づいて園を管理する存在として創造されているのです(同2章4節後半以下)。自由意志を持つ人間を選び、責任を託し、そのことを通して世界に関わりを持ち、計画を進め給う神なのです。神が悔いられたことは、神による選びが失敗したことを意味します。自由が与えられている人間を免責しているのではありませんが、そのことを含め、ダビデの物語を語る歴史家は、神の正義に向けて問うているのです。