IPOのトップページに戻る IPOとは? Photo Gallary お問合せ リンク集  
国際哲学オリンピアード 日本語:PDE Inter-University オンラインドキュメント
英語:PDE on-line philosophical archives library
  敬和学園大学公式ホームページへ
付録4:基礎演習延原ゼミ・レポート(1)
 
 付録4:基礎演習延原ゼミ・レポート(1)-『とりなしの祈り』を通して感じた事-03K007 古川 智美-
 付録5:基礎演習延原ゼミ・レポート(2) 一中国人学生として-03K032 劉 洋-
 付録6:基礎演習延原ゼミ・レポート(3)- 十人十色の意見と交流 - 03k066 高橋 惇 -
 
 

付録4: 基礎演習延原ゼミ・レポート(1)


『とりなしの祈り』を通して感じた事

-03K007 古川 智美-

この『とりなしの祈り――物語形式のプロセス神学』(ジョン・B・カブ・Jr.著、延原訳、東京・ヨルダン社、1990年)という本は、交通事故に遭ってしまい、昏睡状態になってしまったジェネファーのためにその友人たちが神に祈る、というところから始まっています。もう神に祈ることでしか、ジェネファーのために出来ることがなにもなくなってしまった友人たちにとって、祈りは最後の頼みの綱だったのでしょう。その後ジェネファーは奇跡的に回復をみせるようになっていきます。昏睡状態も解け、一部の機能が回復したのです。しかしその奇跡もある程度までいくと、行き詰まってしまいました。祈りとは一体何なのか、分からなくなってしまった彼らは、その答えを出すためにその道の色々な著名人に話を聴くと共に疑問を投げかけていきます。そして「とりなしの祈り」の輪は、どんどん拡がっていくのでした。

初めてこの本のことについて疑問を書くために第一章を読んだ時(注・延原ゼミでは、Question & Reasonの方法を採用している。これは、各自が自分の気になった本の一箇所を選び「疑問」を一つ述べ、同時にその「理由」を書いた一枚のシートを用意し、担当者と全ゼミ生に配布し、それに基づいて討論する、という演習方法を指す。これは北欧の神学者A・ニグレンが『アガペ―とエロース』で採用したいわゆるMotif-forschung(モティーフ探究)を大学のゼミ教育に活用したものである。)、人間の自分勝手さをいうか、欲深さを見せ付けられたような気がして悲しくなったのを覚えています。彼らが祈り、そしてジェネファーが昏睡状態から脱したということだけでも、奇跡的なことです。それでも彼らはさらにもっと完璧なジェネファーの回復をと祈り続けます。「さらにもっと良くなってほしい」と思うことは人情であり、むしろ当然のことなのですが、こうして段階的に提示されてしまうと、少し違った印象がしたのです。そして回復が滞ると「神は何故たすけてくださらないのか」と嘆く、というこの行為が私にはよけいに腹立たしく思えました。

今考え直してみると、この時の私には「自分たちの思い通りにならないと、他のものにあたる」という人間の卑しい性質の他に、「神は<ジェネファーの命を助けて下さい>という一つ目の祈りを聞き届けてくださったではないか」という思いが心に引っ掛かっていたように思えます。私がいままで読んできた絵本の中の登場人物達は、神様や魔法使いや魔人など形は色々ありましたが、どれも一つだけだったり三つだったりと、叶えてくれる願いの数は決まっていました。そういったことの積み重ねから、私は無意識のうちに祈りを数で数えていたのです。この数については「聞き届けられた祈り」に限らず、祈るその行為にも関係してくることではないでしょうか。一日に何回お祈りしているかとか、祈り始めてから今日で何日目だとか、人は必ず数えてしまうものではないでしょうか。私には難しいことは分かりませんが、物質的なことばかりに重きをおいてきた人間の生き方が、こんなところにも反映しているように感じました。

今回改めて不思議に感じたことは、「祈る」という行為は宗教に関係なく、こんなにも拡がっているにも拘わらず、その考え方は全く違い、また誰にでも疑問に思う部分が必ずどこかしらある、ということでした。

まず私個人の場合だけでも、お正月に神社で祈る、困ったことがあるとその救いを求めて祈る、そして自分以外の誰かのために祈る、など「祈る」ことは日常的に行っています。「とりなしの祈り」のようにキリスト教的なものとは少し違いますが、それでも「祈り」に違いはありません。と言ってもこれらは、すべて授業中での先生の受け売りです。それまでは「祈り」というと宗教独特のもので、とても重苦しいものだと思っていました。このことは「とりなしの祈り」の中のジェネファーの友人達も最初同意見だったのではないでしょうか。ですから、この事実を知ったとき、まさに目から鱗、といった感じでした。

私は敬和学園大学に入学してキリスト教について勉強していくにつれ、疑問や、なっとくのいかないことが数多く浮かんできました。それは「とりなしの祈り」の中でジェネファーの友人達が考えた事も、もちろん含まれていました。神が全てを見通していらっしゃるなら、世の中の不幸な出来事も神の成せることなのか、という部分はその代表だと言えます。こういった疑いばかりが浮かんでくる私は、キリスト教徒とはソリが合わないとさえ思っていました。しかし本を読み進んでいくと、それは誰にでもあることなのだと分かってきました。本の中の出来事からも、もちろんそう言えますが、授業で他の学生から出てくるたくさんの疑問から私は特にそう感じました。

自分では「疑問」として処理されなかったものを他の人に改めて「疑問」として出されるということが、どんなに難しいことか、今回思い知った気がします。自分の中では「疑問」ではなかったはずのことなのに、その答えを出すことが出来ない。何とも歯痒いものでした。ただの小さな疑問でさえ、考え出すことは難しいものだと思いました。

このページの先頭へ

 
 

付録5:基礎演習延原ゼミ・レポート(2)


一中国人学生として

-03K032 劉 洋-

本を読んだ後の感想
 半学期の基礎演習の授業をした。感想はたくさんある。先生は『とりなしの祈り』という本を授業で取り上げた。この本から、キリスト教の精神、哲学及び人間学などの豊富な知識を勉強した。「ジェネファーの友人たち」の一章は、友達が病気をした親友たちの気持ちの変化、神様に祈る過程の物語を述べたものである。その物語は生活の中でよく起こるものだと思う。気持ちの変化、信仰の動揺などだ。全世界でキリスト教を信仰する人はたくさんいる。その中に、アブラハムのような信徒はすくない。人々はいつも、平和の時に、神様へ幸福を祈るが、困難の時に、神様を疑う。本当のキリスト教徒はどんなタイプの人だろう。この答えは、本当に聖書を理解した人はわかると思う。この本を勉強している時に、私には多くの疑問点があった。先生の説明を通してその疑問点がわかるようになっただけではなく、神学的な知識に興味を持つようにもなった。例えば、「悪」は二つ存在する――@自然的な「悪」(注・災害や病気)とA道徳的な「悪」である。そして人間性の現われ方もいろいろある――@自分を素直に表現する、とかA黙って耐える、とか、である。延原先生のゼミであまりレポートを書かなかった。代わりに、Q&R(注・疑問と理由)の形式で授業をした。その形式は大好きだ。授業の内容は充実し、自分だけではなく、ほかの人の疑問と先生の説明も聞ける。そして学習の効果はとてもいい。毎回の授業の内容について言えば、先生はキリスト教の精神に基づいて教えてくれた。十分な満足するものであった。

ボランティア活動の体験
 ボランティア活動の精神は、キリスト教の精神の一つに属する。私の学校で行ったボランティア活動は、私に実習できるチャンスを与えてくれた。私のゼミでは「希望の家」の人たちと一緒に活動を行った。その体験を通していろいろな道理を知ることができた。この神様が創った世界で、普通の人だけではなく、障害がある人もいる。でも、彼らも神様の創造物だから、私たちと同じ空の下で生活している。最初、彼らを見た時に、ある人は外見から普通の人と同じではない、と驚いたが、会話を通して、すぐ障害のことがわかった。ボランティアのVTRの映像を見た時には、ボランティア活動はあまり難しくないと思ったが、自分がやった時には、ほんとうに逃げたかった。でも、彼らの笑顔及び自分と話し合いたい表情を見た後、私はもう一度彼らの中に入れた。彼らと一緒にがんばってゲームをして、写真を取った。人間は、その世界で愛なくして、的確に生存できない。特に彼らは最も「愛」が必要だろう。神様が私たちに教えたように、人々は誰も「愛心」があるはずだ。

勉強と生活
 私は、私のゼミで唯一の中国人だ。最初、この授業をした時、不安だった。もし、わからない言葉が出たら、しかたがない。でも、先生は、重要な内容を黒板に書いてくれることで、私は助けられた。やっぱり日本と中国の漢字はすごく似ているから。このゼミに入ってから、私もたくさんな人と友達になった。男の子もいる。彼らはとても親切だ。活動する時や勉強をする時も、私を助けてくれた。だから、授業の内容をよく理解することができた。せんせいからも、もちろん。私は留学生だから、勉強することのほかの用事もいっぱいある。例えば、留学生にとって一番重要なこと――ビザ。延原先生は教授であるし、私の大学の「核心人物」だから、毎日とても忙しい。でも、私はビザのことで困って先生に助けを求めた時、先生は、すぐ協力してくれた。私はやっぱり日本語は上手ではないから、どう表していいのかわからない。その時に、たくさんのことばを言いたいのに、「ありがとうございます。」だけ言った。延原先生から、いろいろな知識を教えてもらうし、たくさんの助けももらってすごく感動した。

活動を通しての感想
 私も学校で、教会の人、学校の先生、留学生たちとパーティに参加した(注・2003年7月12日(土)敬和学園大学で開催された、日本基督教団関東教区新潟地区世界宣教委員会主催・敬和学園大学及び敬和学園高等学校共催「留学生の集い」のこと。参加者42名。内留学生13名に、新井明学長より認証書授与)。その日は、スピーチの通知をもらったばかりだから、何も準備していなかった。私のスピーチの内容はすくないが、本心を表していて、私自身とても満足した。また、ほかの専門学校の留学生のスピーチの内容に共感することもある。最初、私達は日本に来た時、みんなとても大変だった。勉強しながらアルバイトをしなければならない。そして、アルバイトをする時、順調ではないこともいっぱいある。ところが、生活のため、私たちの留学の目的のため、最後までがんばらなければならない。21歳の私にとって、帰国する考えはよく頭に出る。両親と会いたいし、ふるさとの食べものを食べたいが、今は、私は日本にいる、そばに両親と親友がいない。生活費も自分で負担しなければならない。私は若いが、遊ぶ時間がないし、あまりテレビを見れない。これは、私の今の生活だ。これも現実だ。でも、若い時、そのような体験があって、一番重要な「富」だろう。今、徐々に、日本の生活に慣れてきた。毎日、とても充実した生活を楽しんでいる。

このページの先頭へ

 
 

付録6:基礎演習延原ゼミ・レポート(3)


十人十色の意見と交流

- 03k066 高橋 惇 -

前期の基礎ゼミではまず、十人十色だということを知った。人によって様々な意見を持っている、ということである。ゼミの「クエスチョン・アンド・リーズン」(注・教科書を読んだ上で、どこかのページの内容に関する疑問とその理由を一枚のシートに書いて各自用意し、全員に配った上で発表、討論するゼミ形式)でそのことを知った。また、人の意見を聞くことによって自分にプラスになったりもする。人に自分の意見を聞いてもらい、それについて話し合い考えるということが、こんなに大切だとは思わなかった。

やはり、話し合ったり、交流したりするのは大切である。交流と言えば、7月9日に行われた希望の家の人達とふれあったボランティア実習である。障害をもった人達とのふれあいは、ただの交流ではなく、心の交流でもある。わなげをやったり、しんけいすいじゃくをしたり、さまざまな交流があった。時に驚いたのがしんけいすいじゃくの時で、何枚も当てている人がいたことだ。障害をもっているとは今でも思えない。景品がかかっているからかもしれないが、それ以前に、純粋にゲームを楽しんでいる人だなあ、と思った。

もう一つ驚いたことがある。僕の前に座っていた希望の家の人が上越市出身の僕の小学校の校歌を知っていたのである。でも、驚く以前に、自分の出身の小学校の校歌を知っていたのがうれしくて、一緒に歌った。とてもうれしくもあり、楽しかった。

うれしい話はまだある。希望の家で働いている人に昼食の時、「ちいさなおわんを三つ、四つ持って来てくれませんか。」と言われ、持ってくると、「ありがとうございます。」と言われ、ボランティアをしている、人の役に立っている、という実感がわいてきてうれしかった。

ドッジボールをしている時でもルールは分かっていなくても楽しんでいるからいいやとさえ思った。こういう機会を与えてくれた人達に感謝したい。

ところで、最初のゼミの話に戻るが、4月24日―25日に胎内パークホテルで行われたオリエンテーションで、自己紹介の時、この人達と一年間がんばっていくんだなあ、という期待と不安でいっぱいだった。

今では、このメンバーで色々な問題を色々な意見をかわしながら取り組んでいる。例えば、「care」は「配慮」、「cure」は「治療」ということで、似たような言葉でも意味は全く違うことを学んだり、またある時には、人の気持ちには段階があり、段階を良く見て大切にする、ということを学んだ。僕は、後者の問題については、「こういうところが良くなかった。今度はこういうところをなおしていこう。」というように、成長するのも病気が治るのも段階を踏むことが必要だと思ったり、喜怒哀楽が激しいのは、色々な段階を踏んでいるからだと思ったりした。この考えも、ゼミのメンバ―の意見を聞き、考え出した意見だ。自分の意見を持つということは、一人の力では生み出せないと思う。人に問題を提起し、それについて話し合い(discuss)、さまざまな段階を経て生まれてくるものだと思う。

『とりなしの祈り』では、祈ることの大切さを学んだ。そしてthinking for oneself(自分で考える、自分の意見をもつ)ということや、mutual learning(お互いに学び合う)という楽しみもある。

このゼミでは、「祈る」ということや、「思いやる」ということをよく耳にする。人の命を大事にするということなのだろうか? 他にも、神を讃美する使命、仕事という意味の「お召し」(キリスト教)という言葉や、「お迎え」(仏教)という言葉も出てくる。こういうゼミを受けていると、人の命の大切さ、尊さが身に沁みてくる。

先にあげた『とりなしの祈り』を読んで疑問を持ち、話し合う。そしてまた新しい意見を持ち、その繰り返しで、成長していくんだなあ、と思う。その意見を持つことが、自分を表現する大事な材料になると思う。これからは、交流や話し合いなどさまざまな場面で、自己表現が重視される時だとおもう。だから、このゼミでさまざまな場面で対応できる自己表現力を吸収していきたいと思う。

 
前のページに戻るこのページの先頭へ
2003 国際哲学オリンピアード-第十回大会事務局 敬和学園大学-. All rights reserved.