ヨルダン会在家集会(12)議事録
日 時 |
2003年5月19日 |
場 所 |
木原宅 |
参加者 |
市村兄 市村姉 横井兄 木原祐姉 木原法姉 木原和彦 (計6名) |
昨日昼、酒井姉が「明日お孫さんの世話に手をとられ、集会を休ませていただくので、皆さんによろしくお伝え下さい」と、わざわざ差入れを持って私の家に来て下さった。酒井姉は4人の小さいお孫さんに頼られ、そのお世話は大へんでしょうが、元気にその責任をはたしてしておられるのが何より嬉しく思います。 又、横井兄は市村ご夫妻に支えられ、痛む足を引きずりつつ辛抱して、遠路おこしいただきました事、誠に恐縮です。ますますこの集会を意義のあるものにしたく思います。
さて、集会はいつも通り、始めに讃美歌20を歌い、続いてキリスト心経を唱和した後、本題にはいる。今日のテキストは 「仏教的キリスト教の真理」 第三章 人間と神、序、(1)限界の意識 とした。先ず朗読のテープを聞いた。但し(1)については時間切れの関係から、次回にに持ち越すことにした。
学びの要旨:第三章 人間と神
序
1968,1969年頃、全国で過激な大学紛争が起こったことは私達の記憶に生々しいが、丁度これとはパラレルに「七十年万博キリスト教館出展」を契機に日本基督教団闘争があった。そこで先生も造反牧師の一人として運動に加わっておられたが、ここで「教団の万博参加」を追及すればするほど、古びた洋服のように引きずり出されてきたのは、戦時下の「日本基督教団成立問題」であった。これについては、我が国のプロテスタント諸教派は海外よりの宣教者の出身によって制約され固定化されていたが、太平洋戦争を目前にした文部省の宗教統合制策に吸い寄せられることによってだけ諸教派の統合が可能になった、というところにあった。
この教団成立のプロセスの中に「日本基督教」と「社会的基督教」という二つの過激な運動が変転しつつ存在していた。これを組織するドグマテイストとリベラリストの主導権争いが、ドグマ派が文部省の政策に屈服することにおいて、主導権を手中にした。これについては「本教団に属する信徒は、万世一系の天皇を奉戴する臣民として…」とキリスト信仰を換骨堕胎するというあってはならぬことにおいて教団の統合がなされた。これらのことがますます明かになるにつれ、先生は現状の教団闘争そのものに疑問を持たれ、この万博参加を契機にした闘争もかってと同じような道を辿りつつないとは言えないか、自問自答の追求であった。
先生は、このような問題意識の果てに、問題をもはや歴史的・状況的な象面においてではなく、真正面からキリスト教信仰の中核において追求しようと決心し、孤独の道をたどられた。
このような追求の果て、おぼろげにも意識の底、信仰の対象である「神の問題」の追及から普遍的な哲学問題のあるもの――限界・対象性・対象化――が見え出したとして、ます次のこと(一)(二)(三)から語られる。この文は非常に難解である。まず本文をそのまま引用する。
(一)まず、神は世界人生の絶対限界である。人間が罪や死のような「人間性の限界」にぶっつかるから初めてこの「限界」を解決する神を求める、というのでもない。あるいは「理性の限界」に行き当って「永遠」を念う、というのでもない。神が限界なのである。生くるにも死ぬにも終始、限界なのである。 かれは歴史世界のいずこにても限界なのである。歴史世界はたしかに、のっぺらぼうの平面ではない。まずそれは物心の両現象面に肢れ、精神現象面はさらに一人性、対人性、社会性ないし共同体性の三つの基軸によるいわば「関係の絶対性」をなしつつ物質現象面、いわゆる下部構造と相切する。そうして物心の両現象面は、両者を、世界の超えるところからの委託を承けつつ・世界内的に媒介すべく、さらに第三の国家政治面をもつ。こうであるから、三面の相切するところ、面では全然説明のつかぬ線として、上述の三基軸が立ち現われる。これらは歴史的現実形態のそこにおいて現象する三つの象面とは次元を異にする、それ自体独自な、歴史の根源的本質的な諸規定であるということができる。この意味で物心の両面はひとりの人の命を踏みこえて融合することは不可能であるし、精神と国家の両面は家族というものを無視・解体する仕方で結びつくことはできないし、物質と国家の両面(政経)は社会的共同性というものをどちらかの面だけ了解してしまう、そういう仕方で社会的共同性自体の固有性を晦ます、ということが許されない。
ところで神は、こうした三基軸の相切する原点として、人間を含めて、一切の存在者の根底を制約する「インマヌウエル」の、絶対に根源的な唯一の本質規定と呼ぶことができる。
この文は非常に難解である。神は世界人生の絶対限界である。この限界の考察については 二節 限界の事理(註1)に移すとして、ここでは「歴史は確かにのっぺらぼうの平面ではない。…」について、私(木原)自身のものとして考察したい。
この文は、世界人生であろうが歴史世界であろうが、活ける神がそこにおいて働きかけられる仕方の全てを言っておられると思う。この私の全てにおいても、神がこのような仕方で迫ってこられている。確かに私自身の精神面の思いを深めれば、これは一人性軸、対人性軸、社会性軸が混合せぬ分節したものとして「関係の絶対性」をなしていることを了解する。これは三次元世界をX,Y,Z軸で表わす如く絶対軸として有る。そこで先生は、この上部構造なる精神現象面(ソフト面)は、物質現象面(ハード面)いわゆる下部構造面と相切するといわれる。これは如何なるものでも成立つはずであるから、今、私の考ている科学世界について、これを映し出してみよう。
被造世界は物質現象面なるハードの世界と精神現象面なるソフトの世界に分けられている。ハード面の科学即ち物質現象面では自然科学で位置し、基礎的なものに理学、即ち物理学、化学、生物学等であり、応用面では工学、医学等になる。ここでハードとソフトの境界にある一人性の軸、このハード側でより原点側に分子生物学や生命科学等を含む基礎科学となる量子力学が位置する。これよりなお離れて医学があり、物質現象面のより沖合いでは、自然科学一般の基礎となる物理、化学、生物学がある。
次に一人性軸に直交する社会性軸の物質現象面側には、より軸の近くに量子統計力学があり、これから沖合いに向ってあらゆる工学が位置する。電気工学であり、機械工学であり、材料科学であり、化学工学であり、栄養科学等々である。
次に一人性軸のソフト側ではより原点側に哲学、続いて心理学がある。又、精神現象面のより沖合いに文学があるが、これは対人性軸をこえ社会性にまで広く表現する。対人性軸付近には倫理学があり、国家政治面側には社会学が位置する。
次に対人性軸と社会性軸をはさむ沖合いは、経済学あり法学あり政治学あり、一般の人文科学系が位置する。ここで社会性軸ソフト側の経済学はこの軸を超えて統計力学に隣接しているが、統計力学で論じられる自然界の物性を理論的に導出する分布関数は、形を変えて考えれば直ちに経済学の論する所であることは興味深い。
ここで物質現象面、精神現象面、社会現象面なる二次元面がまじわり、これよりなる線は確かに一次元で、面の性質の延長で説明がつくというものではない事は明かである。数学的にも次元の違うもの同士を一緒に説明し得ない。確かに先生の言われるように、「説明つかぬ線」としか言いようがない。このように分かれた象面に分布する科学は、すべてを一つとして論じ得ないことは、現在ある通りである。
それではその三基軸を集約する原点を対象とする科学とは何か。これが神学の任務である。神学は原点を追求する学問である。
3基軸の切り結ぶ原点に在られる神、これがこの世では三つの基軸に分節して、世界人生、歴史世界のそこに迫ってこられる。これは上述の科学世界においてしかり、私の全実存に迫る活ける神もそのようであられる。
(二)ところで次に限界は構造をもつ。それが根源的な意義・位相における「対象性」である。(中略)かれにおいては限界(人間存在の場)と対象化(人格性)が剥離する。……
この文は、一切は神の手中にあって、神の似姿に造られた人間を思い起す。人間存在の場は神の似姿として、対象化されている人格性できまる。この構造を見極めないならば対象化が対象性の対象化ではなく、対象化それ自体として孤立的・抽象的に措定せられるという意味なのか?
(三)最後に、対象性が限界においてそれとして見極められて初めて、対象化の・歴史世界のさまざまな象面における・あらわれ、位相、意義が確定されることができるのである。……
この文は(一)及び(二)を了解すれば、結果として(三)にならざるを得ない事が了解できる。
本序文の考察は自分に迫って来ることとして考えを進めなければ、文が宙をまわって決して理解する事が出来ない。しかし私に迫られる活ける神のありかたとして深く考える時、がっちりと思い当たる事であるという結論でもって話し合いを終えた。
以 上
次 回:
期 日:2003年6月30日(月) 午後2時〜5時
場 所:木原宅
テキスト:仏教的キリスト教の真理 第三章 人間と神 (一)限界の意識
2003.6.26
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