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付録4:基礎演習延原ゼミ・レポート(1)
 
 ヨルダン会在家集会(8)議事録
 ヨルダン会在家集会(9)議事録
 ヨルダン会在家集会(10)議事録
 ヨルダン会在家集会(11)議事録
 ヨルダン会在家集会(12)議事録
 ヨルダン会在家集会(13)議事録
 
 

ヨルダン会在家集会(8)議事録

日 時 2003年1月26日(月) 午後1時〜5時
場 所 木原宅
参加者 市村御夫妻 新田兄 横井兄 木原姉 木原夫婦 計7名

始めに讃美歌121で讃美し、基督心経を唱和した後、本題に入る。今日のテキストは雄鹿第4号の説教≪ぼくのクリスマスメッセージ≫である。この文書は非常に大きく、且つ深い内容をもっているので一回では到底完読出来そうもないが、とにかくやってみる事とした。(結果は全文終える事が出来た。)

テキスト 説教≪ぼくのクリスマスメッセージ≫の要旨

冒頭の序文では、先生が大学の神学部で説教をたのまれ、「日雇いの経験」について話すように求められた事に対し、これには応じられず以下の説教を話されたが、その時の先生のお気持を実に深く、且つ短く、明快に述べられている。

・ 自分の経験は、ほかの人に見せ物するのではなく、故郷のような、いつも帰りきて、そこから命の清水をくみとる泉だと思うからです。それに、ぼくは一緒に働いていたおっさんやおばはんにすまないと思います。人間には言っていいことと、言わないで隠しておくべきことがあります。ぼくは恥というものを知るようになりました。本当に尊いものは軽々しくしゃべるべきではないという感情です。しゃべることによってそれが消えて行くことを一番恐れます。(このあたりの内容は、内面的な思いを実に鮮やかに表現されている。 木原記)

・ ぼくが経験について皆さんに話したところで、皆さんには大した益にはならないだろうと思います。で、経験ではなく、これを通して考えたことを話そうと思います。

・ 人間は誰も自己固有の経験を深く持ちこれを思想化すべきです。これを通じてお互いが交通するのです。いずれにせよぼくは自分の考えた事を話します。 (私の若い時、自分の奥深くの経験が絶対に口にまで登らず、先生の胸をお借りして迷いをぶっつけ納得いくまで梅田の酒屋で先生からお話を聞いた当時の私の気持が重なるように思い出す。私は先生のご指導あって今ここに在る。感謝 木原)

(一)

本節では認識の相対性ということについて言及されており、近代物理学からサルトルが学んだ認識「今日価値を持ち得る唯一の認識の理論とは、実験者が実験体系の部分をなす」という事理を基礎に、「これより認識とは必ず認識の方法に依存しているもので、純粋に客観的認識などというものはないのだ」ということが述べられる。
 この認識上の真理を神学に展開し、「これは神学にしても言えることで、それによって日本をキリスト教化してしまうような絶対的立場を前提し、立証しようとするなら身の程知らずであると言わねばなりません。絶対的立場など存在しないのです。あるのは私達が一人一人ひとりの人間であるという事実だけです。この事からすべてが始まらねばなりません」と先生は述べられる。 

(二)

本節ではこの考察を当時の日韓問題に移し、これに関する新聞記事の二つ、政治問題以前のもっと深い人間の問題としてとらえる姿勢について語る二人(岡本太郎と大島渚)のエッセイが紹介される。これについて岡本太郎は、苦悩は人間的なものだから、自分がそれから超然としていることを前提とした同情は不潔である旨を述べ、大島渚は「重い心で韓国を語る」といい自分の罪を自覚し、それをあがなおうとする心で接していかねばならない旨を述べている。そして先生はこれらの文を通して、「重い心」こそじかに他者の心に伝わる、本当の他者の理解だと述べられる。それではこの「重い心」にどのようにして至るかが次節で述べられる。 (私は過去において、苦しんでいる友、私が快く思わなかった友、こんな人達を……、あるいは肉親でさえも、ある時自分の恣意的な心で自分から切り捨て、忘れ去ろうとしたことがどれだけあろうか、しかしこれらの人々は自分の心の中に決して忘れることが出来ぬ姿として在る。その時は自分に都合よい又、心が快活な方に振るまい、決して「重い心」で目前の兄弟姉妹に対して振舞わなかった自分を思い、懺悔の思いがこみ上げて来る。「重い心」とは、隣人としてその人達を迎えいれる私の心にある。木原感)

(三)

ここで先生は「重い心」の認識にいたる道として、孤絶に徹することに於いてだといはれる。近代哲学の父とされるデカルト流の認識「見ている自分」と「見られている自分」は仏教流に言えば「分別の世界」である。この世界では「我」はいつも分裂していて、不安で仕方がない。これをキリスト教の信仰について考えれば、キリストはいつも私を見られているということが信仰の実際の内容となり、このような信仰は「我」の分裂を癒すことができないで、それを助長しているだけになる。これに対して絶対絶命の孤絶の境涯に身を投げ込み、ここに住居を定めれば、驚く程ありありと重い心でもって他の人のことが判って来る。これは客観的な接近法でなく、わが身をおいて他者にいたる「わかりかた」、禅宗ではこのような「孤絶」を「座」といい、ユダヤ人のいう「カバラー」と同義か。
(デカルトの認識に立つ信仰、相手に向って裁きの目で見る「我」も分裂した我において隣人を見ている。 木原反省)

(四)

 本節では「孤絶」、禅宗では「座」における我の意識を親鸞の「弥陀の五劫思惟よくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」の一人において説明、この「我」こそ神に出会う場だと説かれる。
(荒野で呼ばわる者の声がする。主の道を備えよ、主の道を真直ぐにせよ。私のクリスマスはこのようでした。「主の道を備える」内面的苦しみは孤絶の道です。私の心を真直ぐに主に向わせる道です。このようにして私は若い時にキリストをわたしの心にお迎えする事が出来ました。木原感)

(五)

本節では、私においてキリストが私となられる最大の所以が説かれている。ここで妙好人の一人才市の言葉「わたしが阿弥陀になるじゃない、阿弥陀のほうからわたしになる。なむあみだぶつ」という仏教における正覚の言葉やその他、二三の重要な語句をあげて説明された後、十字架におけるイエス様のみ言葉「我が神、我が神、何ぞ我を見棄て給いし」(ルカ二・十二)に言及され、この叫びは、彼が私達一人一人の「我」になって下さっている以外にないと言われる。キリストはすべての人にとって、一人一人の人間が最後のどんずまりの淵で、その私に彼はなってくださっているのが、私をわかり私を助けてくださることの所以であると言われている。(誠にしかりです。木原感)

(六)

本節では信仰の奥義が説かれている。「彼が私となっておられるその彼は、私が私を知るよりももっと深く私を深く知っておられる」と言われ、「信仰とはとことんのところ私に知り得ない私があることを是認し、そのような私を、私を私よりももっと深く知られる方に任すということだ」と説かれる。
「その意味で信仰とは、リラックセイション、くつろぎであり、そして自分だけを頼りにし自分しか見えない強情な我を、そのつどそのつどリラックスさせて行くのが祈りである。そして知り得ない私を、私となられた別己の我に、祈りながらお任せして行くとき、私は真の私になる」と説かれる。(まさにしかりです。木原感)これに引き続いて下記するルターの「ロマ書講義」の抜粋が掲載されている。

 「そしてまた、われわれが己れ自ら生来悪であるので、長所として誇りうるものはわれわれの中に何もなく、ただ悪しきまののみあるからには、たしかに彼らは畏れ、へりくだり、そしていよいと神の恵みおばうめきの嘆願をもって追求し、こうしていよいよ前進する。それは、望めよとわれわれが命ぜられるのは、決してわれわれが本来なさねばならなかったとおりに振舞いうるようにわれわれが望むことをめいぜられるのではなく、むしろ、われわれのこの深渕を独りしりたまう憐れみ深き主が、もしわれわれにして神に懺悔しさえすればそれを決してわれわれの罪とは数え給わないことを、望めよと命じ給うのである」(この文は在家に身を置く者に深く強く迫ってくる。木原感)

(七)

本節では、彼が私となられたそのことがインマヌエルなるクリスマスではないかといわれる。終りに、全文の根底にある確信、私となられた「彼」、彼がなられた「私」について、滝沢神学の観点から述べられている。

以上


次 回:

期日:2003年2月17日(月)午後2〜5時  場所 木原宅
テキスト:基督心経とその解題一項〜十項

2003.2.18

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ヨルダン会在家集会(9)議事録

日 時 2003年2月17日 午後2〜5時
場 所 木原宅
参加者 市村兄 市村姉 木原祐姉 木原法姉 木原和彦 (計5名)

始めに讃美歌312で讃美し、基督心経を唱和した後、本題に入る。この度は在家の意味を深めて理解することを第一の目標とした。このためまず、@基督心経とこの解題を学ぶ。そしてずーとさかのぼって先生が在家を説き始められた頃、その背景にあるとして理解れる Aボンヘファーの「抵抗と信従」の一節「この世性」と、ルターの「ロマ書講義」の一節を学び、続いて、B先生の書かれた書物「仏教的キリスト教の真理」第一章 在家キリスト教宣言をテキストとして学ぶことを予定にしていた。しかるにこの度は@Aを学んだが、時間の関係からBを学ぶことは出来なかった。

検討の要旨:

基督心経とその解題

基督心経を再読し、その意味について互いの思いを話しあった。続いて解題の解釈に移った。まず解題七の「キリスト・イエスの心を心とする」、これは神の真の霊性の姿をとり給う人間イエスの霊性、これで神の創造された世界を真正の思いで受止め生きぬかれたイエス様の心を深く私の心とし、互いに日々感謝と歓びの生活を送ること。心経を日々心に繰り返し思うことによって、心の深層にまで留まらせることだと考えた。

次に解題八で「イエス・キリストの心とは、いわゆるキリスト精神のことではない。イエスがキリストである「所以」(根源=事理)のことであり、キリストのケノーシス(自己無化)の力動である」と言われる。そこで「自己無化」とはなにか、又、これが何故「力動」なのか。このあたりが非常に難解な箇所である。ここで「自己無化」であるが、私はこの言葉を自我の消えた大我の世界、即ち時間を超え、事物の境を超え、いっさい全てがつながっている命の世界を指しておられるのかなと考えた。(木原流に言えば、人間の実存は時間に無関係な因子と時間因子との積によって構成されると考えるが、自己無化とは、この時間に無関係な因子の事ではなかろうか、と考えた。又、「力動」については演算子が作用、即ち力動してこれが現実化して来ることを意味しているのかな、と考えた。木原感)

次に解題九であるが、上記を心に深く承認し、告白し、主なる神を讃美する事によって、無窮のインマヌエルなる神の流れに参入する。このように、私達にとってこの世は修業の世界となる。

次に解題九であるが、「かく称えながら人は、時々刻々人となり、遂に人生の最後の転換期を経て、永世に至る。生涯、アーメンの修業の場である。」と言われる。時々刻々キリストに倣う人につくり変えられ、これが修業の場、そして永世に至る。アーメン (木原流の考えで言えば、この讃美が人の霊をして、永遠の神の流れに参入して行く。人の霊が神の霊に参入する、即ち死後の救いを言っておられるのではないかと思う。)

ボンヘファーの「抵抗と真従」と、ルターの「ロマ書講義」

次に、ボンヘファーの「抵抗と真従」と、ルターの「ロマ書講義」の文節を学んだが、これは「在家キリスト教」を理解する上に大へん参考になる箇所になると思うからである。

そこでまずボンヘファーの「抵抗と信従」260〜261頁の文節「僕はここ数年間に、キリスト教の深いこの世性というものをますます深く知りかつ理解することを学んだ。……それは、豊に成長を見た深いこの世性であり、またそこで死と復活との認識が常に現在的でであるところの深いこの世性であると僕は思う。ルターはそのようなこの世性の中に生きていたと信ずる。」「その後僕は、この世性の中に完全に生きぬくことによって初めて信ずることを学ぶものであるということを経験したし、……人が自分自身から何かを造り出すことを全く断念した時、…その時にこそ人は、自らを全く神の御腕の中にゆだねるのであるし、またその時にこそ、もはや自分の苦難を意に介せず、この世における神の苦難を真剣に考え、ゲッセマネのキリストと共に目をさましているのである。それこそ信仰であり、悔改めであると僕は思う。…この世の生活において神の苦難にあずかる時、成功には有頂天になり、失敗には戸惑うということがどうしてあるだろうか。」

以上のテキストから、キリストを信じることは孤絶のなかで学ぶことであり、孤絶の中にあってこそ真のキリストに出会うのであって、日本の国家キリスト教的体質の宣教からは大きくかけ離れているのでないかということが分かる。

次にルターの「ロマ書講義」の一節で「われわれが己れ自ら生来悪であるので、長所として誇りうるものはわれわれの中に何もなく、……神の恵みをばうめきの嘆願をもって追求し、こうしていよいよ前進する。……望めよとわれわれが命ぜられるのは、決してわれわれが本来なさねばならなかったとおりに振舞い得るようにわれわれが望むことを命ぜられているのではなく、むしろ、われわれのこの深渕を独りしりたまう憐れみ深き主が、もしわれわれにして神に懺悔しさえすれば、それを決してわれわれの罪とは数えたまわないことを、望めよと命じたもうのである。」

以上の真理においても対象認識に基く伝道ではなく、俗の俗なるままに「在家」における真理の探求、それがそのまま宣教である事こそが、先生が深く確信される切っ掛けとなり、この救いの考え方が在家の底辺に流れているのではないかと私は思う。

次 回:

期 日:2003年3月17日(月) 午後2〜5時
場 所:木原宅
テキスト:仏教的キリスト教の真理 第1章 在家キリスト教宣言

以 上

2003.3.20

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ヨルダン会在家集会(10)議事録

日 時 2003年3月17日 午後2〜5時
場 所 木原宅
参加者 市村兄 市村姉 木原祐姉 木原法姉 木原和彦 (計5名)

始めに讃美歌310で讃美し、キリスト心経を唱和した後、本題に入る。この度は前回に引続き在家の意味を深く考える事をねらいとした。従ってテキストは延原先生著作の「仏教的キリスト教の真理」の第1章 在家キリスト教宣言 を学んだ。 テキストの一、二については若き日の先生の葛藤された濃縮であり、書き下せばさらりだが、実に苦しい孤絶の闘いが綴られている。当時先生にお聞きした一言一言を思い起しつつ話し合った。時間の関係もあって、三については各標題を触れるにとどまった。

学びの要旨:第一章 在家キリスト教宣言

だれにでも、ものを考えるには、それなりの発起点がある。歴史という大きなものも、おのれの固有の経験のうちに必ずその典型的な姿をおとしている。ここをかい潜らずに歴史の意味などつかもうと思うべきではない。現状の日本キリスト教界に入られ、強い内省をとおして、新たに主張される道「在家キリスト教」。

ここに先生が提示される新しいキリスト教の道、「在家キリスト教」を提唱されるに至った動機、――「何を信じて起つのか」という「信心決定」的動機――何によって突き動かされているか、内発的な実践的動機と、在家キリスト教の一応の輪郭を以下の一、二で記されている。 (短い文に濃縮されているので極めて難解、幾度も繰返して読む必要がある。木原)

一、 主張の矛盾性を知るまで

先生が母教会に伝道師として赴任された当初の思想は前回に学んだボンヘッファーの「この世性」に促がされ、いと小さき者、弱い者、無きに等しい者の選びから、「労働者伝道」を条件に赴任された。しかし、ボンヘッファーの理念「真理の表現が状況の選択を離れてなしうるはずがない」そのことが、現実の状況下では職場聖書研究会を開いて自教会の教勢拡張か、おのれの生の源を打明ける「友達づくり」か、結局は状況の選択とは言っても、やっている事は結局、キリスト教的救済観念を絶対化して先に立て、「憐れにも救いを知らずにいる」異邦人にこれを注入するという対象認識ではないか。ボンヘッファーから感ずる深い理念から涌き出る信仰、これと現実の教会伝道に大きなずれを感じられた。これに加えて、既成教会においては、体制維持のためには真理の探求を避けるという何とも言えぬ醜態に同調出来ず、確信する自己の理念に身を投じられた。これについて次のように語られる。「理念的なものに残された途は、一歩退却、二歩前進、おのれの個性的な実験を通じて関節的に、じかに歴史に切り込み、話しかけ、歴史とそのような対話からだけ獲得される思想性で持って制度的なものの本質を撃つ、そして歴史のあらゆる部署での働き人の思いがけぬ木霊の連合で反包囲する以外にはない。」と言われ、自ら数人で加茂兄弟団を始められた。そして『雄鹿』『バンビーノ通信』というミニ機関紙を公刊し、自らの確信を世に語られ続けた。

こんな中で(前記の対象認識という接近法ではなく、カッコ内木原追加)自ら日雇い労働者となって工場で働かれた。しかしいくら考えようと苦しもうと結局自分のしていることは自己義認でしか無いとの発見と、これを気付かせるより深い認識「深淵を独り知りたもう憐れみ深き神」(ルターのロマ書講義)を足下に感じられた。(これは自己義認というレベルではなく、もっと深いレベルからやってくる促がし、木原追記)そこで気付かれた真理を次の3つでまとめておられる。

@人がなんらかの主張を固持しようとすると、それにこめられている正義の貫徹という動機は、主張者の自我そのものを突き破ってしまうということ、

Aしたがって究極のところ、正義は自我で支えられず、もうまったく自我を離れて正義は存在することを承認せざるをえないということ、

Bこうして「主張」の内部が「矛盾」しているのではなく、「主張」とそれを支えようとする自我とのあいだが決定的に「矛盾」しているのが人間存在で、だからこそこの「矛盾」を承認する以外の仕方では正義はそもそも言い表わせるものではないというのが正義の性格だということ、

上記は「主張」を撤回するということではない。まさに逆で、「主張の矛盾性」こそ、「主張」を、自我の所有のようにではなく、存在の客観的関係構造を批判的に明らかにする仕事としてなしうるのだ。 これより本文ではヨブ記を語られる。(この箇所大へん重要。しかし私には重過ぎる。木原感想)

二、わたしの教会闘争の視点

日雇い現場で犬のようにおとなしく仕事をする老人おっさんの助言、「わしらもう年やけど、あんたらまだ若いねんさかい、こんなところにフラフラせんと、……」いくら罵られても自分の人間としての場、逃げようのない場、この老人よりふと気付いた事、種類は違うといえ、このなかで生きぬいている老人との同一性を悟った時、粛然とした、と先生は語られる。そして自分の腹も決まりここを離れて生きられない、それが最低のモラルだと感じられた、と書かれている。(この悟りは恐らく前文で言われる「底辺労働者になってもなお残る傲慢さ」に深く気付かれた事と関係があろうと思われる。木原追記)

「万博論議」にせよ「史的イエスを実験段階なら自由だが現実の牧会伝道がそれに基くなら捨てておけない」  (私はこれを「金を持たぬ貧民屈の中に伝道しても教勢の拡張にはならない」という意味にとる。実に憤慨する言葉だ、イエス様は放浪し迷えるを選ばれて宣教された。そこでみんながぞろぞろイエス様の行くところについて行き、み言葉を聞いた。これを何故、実験段階と言って現実の牧会から切り捨てるのだ。??? 私は日本キリスト教界の歴史的な事は知らないが、もし、こうなれば憤慨だ。木原感想

そして先生はつぎのように言われている。 「時も得るも得ざるも伝道する」という一般主義的ミッシオロジーのなかには福音に特有の「見棄てられた者たちへの愛の傾斜」の視点――俗の俗なる者との連帯の視点――が欠けていろことを浮き彫りにした。それは、日本基督教団に内在的な国家基督教的性格から必然的に出てきた欠落現象である。……この意味での、俗の俗なる者の尊重を在家基督教と名づける。として次節で宣言される。

三、在家キリスト教宣言

本節は時間の関係で内容を学ぶまでに至らず、項目を読みくだすだけにとどまったが、以下は事前に本節を読んだ私の勝手な感想である。それは私の長年関わっているボーイスカウトとの対応関係である。

在家キリスト教の制度的な面を深く考えれば考える程、その仕組みがボーイスカウト運動のそれと実にパラレルであることに気付いた。「粒子的に――非連続の連続的に――目覚め…」ボーイの初期の広がりはそうである。 「在家は教団にとって代ろうとするものでない」これについてはボーイの活動は、学校教育にとって代れるというものではない。 「聖職廃止論」においてもしかり、ボーイのリーダーは全て無報酬の奉仕者である。それ故、志しある者達が自由に集り研修会を開き、エキュメニカルに、自分達の宗教を押しつけず、他グループの宗教を重んじ、全世界にわたりグローバルな実践体として結実している。 「教団闘争論において在家キリスト教にベクトルをあわせてこそ意味がある」の如く、ボーイスカウト運動は子供達にベクトルを合わせてこそ意味がある、これを支える大人の組織は決して主体となり得ないのでヘゲモニー化しない。等々、個別に比較していけば本当にきりがない。 又、「合言葉は通路である」と言われる、スカウト運動には互いに向き合い三指をかかげてする3つのちかいがある。「ちかい」はスカウトの信条であるとして、次のように唱和する。 一つ、神(仏)と国とに誠を尽くしおきてを守ります。 一つ、いつも、他の人々をたすけます。 一つ、からだを強くし心をすこやかに、徳を養います。

この三つのちかいは片手を挙げて三指をかざし、上記の三条を唱える。こんな逸話もある。太平洋戦争の戦場で互いに銃弾を向い合せた敵と敵が、ふとしたことから三指の敬礼をし合ってスカウト同士である事を知り、武器をすてて抱き合ったと聞く。

次 回:

期 日:2003年4月21日 午後2時〜5時
場 所:木原宅
テキスト:仏教的キリスト教の真理 第2章 あいだを流れるもの

以 上

2003.4.23

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ヨルダン会在家集会(11)議事録

日 時 2003年4月21日(月) 午後3〜5時
参加者 市村兄 市村姉 横井兄 木原祐姉 木原法姉 木原和彦 (計6名)

 今日は日頃ご多忙でおつかれの横井兄の娘さんの運転で、遠路このささやかな集会にご参集、恐縮のかぎりです。特に僅かな時間のあいまをぬって、3人の便をおはかり頂いた横井姉には感謝の極みです。ますます真剣にこの会を続けて行きたいと思います。 さて、集会はいつも通り、始めに讃美歌298で賛美、続いてキリスト心経を唱和した後、本題に入る。この度は前回に引続き在家の意味を深く考える事を狙いとした。従ってテキストは延原先生著作の「仏教的キリスト教の真理」の第2章『あいだを流れるもの』を学んだ。この章も極めて難解、スーと読み過してはならない文の連続です。

学びの要旨:第二章 あいだを流れるもの

本章は、先生が教会を出られてから日頃の体験が内面的に如何に受け止められ、「在家キリスト教宣言」へと移っていったかを示される。序文は「あいだを流れるもの」を直感するための導入文である。

ボンヘッファーのいう「この世性」に励まされた独自の修行への旅立ち、エクソダス(脱出)と孤絶、ここでの親鸞のいう<一人>を身をもって痛切な理解、このような状況にあって日雇いとして今日の作業を待つ不安な気持、より深くは未来の自分への不安、これをひょいとひとまたぎする本工から私への会話「あのう、お茶飲むねんやったらここにあるでえ」「ああ、おおきに」この一言で意識がずんずん広がって行く。このような他者から私に流れるこの仕方に非常に深いものがあるが、これと先生が提唱される新しいキリスト教の道についての繋がりを以下の四節で説明される。

一、 小さな触れ合いを通して

人と人とのあいだに流れるもの、これはどんな酷な条件下にあろうと妨げることを知らぬ。住んでいる環境が暗ければ暗いほど(流れるもの)の果たす象徴的役割は巨大であるとして、大江健三郎の「原爆体験記」の一節、身動き出来なくなった被爆者老婆に行きずりの人が与えた梅干の一粒、これしかない大切なものとして大事に味わい尽くした老婆の気持、ここに見られる一言の会話と無意識の愛の行為を、先生は「真実は無名である」として紹介される。それに続いてマタイ25・37〜40節をしめされる。

ところが、大江は『ヒロシマ・ノート』で上記の一節について「それでもなお自殺しない人々のモラル」と読みかえし、「すべての者の普遍的モラルであるはず」と教訓化しているが、この一言で何かに文の命が吸い取られてしまう、知的消音装置がしかけられた虚しさを感じるとされる。

次に「共同性」を介さずにと題して「おのれの行為に無意識なのは、けっして謙虚だからではない。行為が<あいだを流れるもの>だという行為そのものの構造を指すのである。そして、一つの行為を理念型としてそこから普遍が引き出せるのではなく、行為がまったく無意識であるところ、まさにそこで普遍と直接している」と言われる。 この聖書の中の例として、イエス様が洗礼者ヨハネの弟子との間の会話<「きたるべきかた」はあなたですか、それともほかに…>との問いに、<行ってあなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。…> 律法のらちがいにおかれた民とイエス様とのあいだを流れるもの、又、中風の者を屋根をはいでつりおろし、いやしを乞い御言葉を信じていやされた話(マルコ2・3〜4) これらはキリスト教を信じて救われたのではなく、かわされた<あいだを流れるもの>の志向性が、イエス様は宿業を介さず、人に直属する赦しとして見証したまでだといわれる。(神なる人が開示される真理への直結 木原追記)

二、 自意識と宗教と

上述のような行為を古典的な神学概念で「直接ノ行為」とか「直接ノ信仰」とか呼ばれ、ヨーロッパでは「幼児洗礼」に位置づけられているが…? ナチスヒットラーに処刑されたボンヘッファーの言うように「反省のなかでのみ、すべてのものは反省にもたらされ、したがって信仰も『敬虔』『宗教性』としてだけ考えられるということから、時間のなかで生起する直接的な行為を否定うることほど誤っていることはない」(しかり 木原記)ここに場所をかまわずどこにあっても無者として「他のためにそこにいること」への改心をこの文はよく表わしている。(隣人に向う極み、隣人愛が収斂するところだ 木原記)

次に人間的解放の端緒と題して、同じ戦争体験をした日本から出て来た知見を吉本の文書にしたがい、『信頼と敬愛』において<親や兄弟姉妹や想う人のため>と<天皇のため>を同位相に考えたことが、戦争の悲劇へと招いていったと指摘される。これから最後に人を助け生かすのは<あいだを流れるもの>であり、両者の位相的差異への明晰な見極めこそ人間解放の端緒であるといわれる。

(反省の中にもたらされる信仰について、イエス様はキリスト教で罪を赦され、天国を語られたのではなく、<あいだを流れるもの>として民衆に向われ語られた。したがって反省のなかにもたらされる信仰《これは使徒の説いた贖罪信仰を指すと思われる》は大切だがこれと、<あいだを流れるもの>とこの二つの内容がキリスト信仰に欠かせぬものになると思う。とかく前者だけが強調されがちになるのでキリスト教の絶対性を主張し、他宗教を認めないキリスト者独特の傲慢さが生れてくる原因になっていると思われる。 木原記)

三、 友情の底にあるもの

まず内村鑑三の文を示される。 「独立と孤立とはちがう。独立とは神と共に独り立つ事であって、孤立とは何者とも共に立つあたわざる事である。神と共に立ちて、人は独りでも立ち得ると同時に、大抵の場合は他と共に立つ。そは神と共に立ちて、神の友をわが友とせざるを得ないからである。…」 (内村「教会の諸問題」『信仰著作全集』題十八巻、三五頁) この語句で先生は内村の「無教会」概念が何であるかを言いきっていると言われ、既成教会に対する造反ではなく、人と人との通底の理論、延原先生流だと友情の原理論であると言われる。これにおいて内村は既成欧米キリスト教の問題を超えていると言われている。一方、ルターにおいては、近代的反省にとって、近代への出口で悩み苦しんだ神体験にこめられた敬虔なエゴイズムに呻いていたが、これを「反省の行為」「反省の信仰」として近代に伝えているとされる。

(私、木原は思うが、この「敬虔なエゴイズム、反省の信仰」こそ未だ超えることの出来ないキリスト者の罪として現在でも尚、教会の敬虔なクリスチャンに根強く見られるのではないか。しかしルターは一見「反省の信仰」に見えるそのままで、これを超えきったのがよく引用されるロマ書講義の「そしてまた、われわれが己自ら生来悪であるので、長所として誇りうるものはわれわれの中に何もなく…」ではないか。この文が時代を超え「あいだを流れるもの」として、今あると思うがどうだろう。私の解釈違いだろうか。)

次に鑑三と漱石の苦しみと題して内村のクリスチャン女性との破婚に端を発した罪意識を、『求安録』の一節で示される。「罪なる大問題の解釈については、余は何びとにもたよるべからざるを知れり。…」 これと漱石のイギリス留学における「自己本位」の決意に関した文「多年の間懊悩した結果漸く自分の鶴嘴をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がした」があるが、両者共、「自己の現実・現実の自己そのものを、底の底まで見きわめる決意」(滝沢1970、23、32頁)を意味し、ことは自己を離れない。

四、 「無教会」の真の意味

ここでは内村の次の文を引用される。「……理屈を述べず、義を立てず、ただ余の神が余のために世の初めより備えたる、神の小羊のあがないによらざるを得ざるに至れり。……余は今余を義とするために一の善性の誇るべきなし。余のささげ物はこの疲れたる身と精神となり。この砕けたる心なり」(「求安録」『信仰著作全集』第1巻136頁) 

一見するとこの文は歴史的キリスト教の贖罪信仰の語句である。しかし彼が「…推理より会得するにあらずして、観察と実験によりて確かに認識するなり」と断っているのは教理への対象認識を抜く、自己自信の根源的事実であるからであり、イエスの十字架死すら「客観的楽園」とはできないはずである、と言われる。そして尚、言われる。わたしは彼の日記を読み、つくづくと無教会の真意に打たれるとして「生くるに、いろいろと程度はあろう。しかし、すべての人がキリストに在りて生くるは事実であると思う。読まず語らず書かず、ひとり床の中にあり黙想して、余に如上の思想は勃然としてわき来たった」(内村『日記書簡全集』1.六四ページ)この句は、いっさいの<党派性>につなげられぬ「キリスト」を却下に発見した事を証している。

次に内村の自らを弁護しない姿勢として次の文をしめされる。「『無教会』の無の字は、『ナイ』と訓むべきでありまして『無視する』とかいう意味ではありません」(内村「無教会論」『信仰著作全集』第18巻86頁)これこそわれわれに、あらゆる種類の造反が落ちこむ形態の形態主義の隘路をどこで断つべきか、今も訓えることをやめない、とされる。そして「余はキリストを弁護する。されども自分は決して弁護しない。…」又、「人の善悪は公表する信仰箇条によってはわからない。…これを信ずるがゆえに特別の善人ではない。…」 

彼は自分を決して弁護せず、弟子でさえも師に対する真の理解なく、無縁、孤独といえども大真理の発見を闡明にする彼の哲学は年と共にますます盛んになる。

以上、普通にいわれる「友情の底にあるもの」は直ちに内村のいう意味での「無教会」であり、「孤絶即通路」としての<あいだを流れるもの>とは別物ではないと言われる。

以 上


次  回

期 日:2003年5月19日(月)午後2〜5時
場 所:木原宅
テキスト:仏教的キリスト教の真理 第3章 人間と神(難解なので変更かも知れません)

2003.5.21

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ヨルダン会在家集会(12)議事録

日 時 2003年5月19日
場 所 木原宅
参加者 市村兄 市村姉 横井兄 木原祐姉 木原法姉 木原和彦 (計6名)

昨日昼、酒井姉が「明日お孫さんの世話に手をとられ、集会を休ませていただくので、皆さんによろしくお伝え下さい」と、わざわざ差入れを持って私の家に来て下さった。酒井姉は4人の小さいお孫さんに頼られ、そのお世話は大へんでしょうが、元気にその責任をはたしてしておられるのが何より嬉しく思います。 又、横井兄は市村ご夫妻に支えられ、痛む足を引きずりつつ辛抱して、遠路おこしいただきました事、誠に恐縮です。ますますこの集会を意義のあるものにしたく思います。

さて、集会はいつも通り、始めに讃美歌20を歌い、続いてキリスト心経を唱和した後、本題にはいる。今日のテキストは 「仏教的キリスト教の真理」 第三章 人間と神、序、(1)限界の意識 とした。先ず朗読のテープを聞いた。但し(1)については時間切れの関係から、次回にに持ち越すことにした。

学びの要旨:第三章 人間と神

1968,1969年頃、全国で過激な大学紛争が起こったことは私達の記憶に生々しいが、丁度これとはパラレルに「七十年万博キリスト教館出展」を契機に日本基督教団闘争があった。そこで先生も造反牧師の一人として運動に加わっておられたが、ここで「教団の万博参加」を追及すればするほど、古びた洋服のように引きずり出されてきたのは、戦時下の「日本基督教団成立問題」であった。これについては、我が国のプロテスタント諸教派は海外よりの宣教者の出身によって制約され固定化されていたが、太平洋戦争を目前にした文部省の宗教統合制策に吸い寄せられることによってだけ諸教派の統合が可能になった、というところにあった。

この教団成立のプロセスの中に「日本基督教」と「社会的基督教」という二つの過激な運動が変転しつつ存在していた。これを組織するドグマテイストとリベラリストの主導権争いが、ドグマ派が文部省の政策に屈服することにおいて、主導権を手中にした。これについては「本教団に属する信徒は、万世一系の天皇を奉戴する臣民として…」とキリスト信仰を換骨堕胎するというあってはならぬことにおいて教団の統合がなされた。これらのことがますます明かになるにつれ、先生は現状の教団闘争そのものに疑問を持たれ、この万博参加を契機にした闘争もかってと同じような道を辿りつつないとは言えないか、自問自答の追求であった。

先生は、このような問題意識の果てに、問題をもはや歴史的・状況的な象面においてではなく、真正面からキリスト教信仰の中核において追求しようと決心し、孤独の道をたどられた。

このような追求の果て、おぼろげにも意識の底、信仰の対象である「神の問題」の追及から普遍的な哲学問題のあるもの――限界・対象性・対象化――が見え出したとして、ます次のこと(一)(二)(三)から語られる。この文は非常に難解である。まず本文をそのまま引用する。

(一)まず、神は世界人生の絶対限界である。人間が罪や死のような「人間性の限界」にぶっつかるから初めてこの「限界」を解決する神を求める、というのでもない。あるいは「理性の限界」に行き当って「永遠」を念う、というのでもない。神が限界なのである。生くるにも死ぬにも終始、限界なのである。 かれは歴史世界のいずこにても限界なのである。歴史世界はたしかに、のっぺらぼうの平面ではない。まずそれは物心の両現象面に肢れ、精神現象面はさらに一人性、対人性、社会性ないし共同体性の三つの基軸によるいわば「関係の絶対性」をなしつつ物質現象面、いわゆる下部構造と相切する。そうして物心の両現象面は、両者を、世界の超えるところからの委託を承けつつ・世界内的に媒介すべく、さらに第三の国家政治面をもつ。こうであるから、三面の相切するところ、面では全然説明のつかぬ線として、上述の三基軸が立ち現われる。これらは歴史的現実形態のそこにおいて現象する三つの象面とは次元を異にする、それ自体独自な、歴史の根源的本質的な諸規定であるということができる。この意味で物心の両面はひとりの人の命を踏みこえて融合することは不可能であるし、精神と国家の両面は家族というものを無視・解体する仕方で結びつくことはできないし、物質と国家の両面(政経)は社会的共同性というものをどちらかの面だけ了解してしまう、そういう仕方で社会的共同性自体の固有性を晦ます、ということが許されない。 

ところで神は、こうした三基軸の相切する原点として、人間を含めて、一切の存在者の根底を制約する「インマヌウエル」の、絶対に根源的な唯一の本質規定と呼ぶことができる。

この文は非常に難解である。神は世界人生の絶対限界である。この限界の考察については 二節 限界の事理(註1)に移すとして、ここでは「歴史は確かにのっぺらぼうの平面ではない。…」について、私(木原)自身のものとして考察したい。

この文は、世界人生であろうが歴史世界であろうが、活ける神がそこにおいて働きかけられる仕方の全てを言っておられると思う。この私の全てにおいても、神がこのような仕方で迫ってこられている。確かに私自身の精神面の思いを深めれば、これは一人性軸、対人性軸、社会性軸が混合せぬ分節したものとして「関係の絶対性」をなしていることを了解する。これは三次元世界をX,Y,Z軸で表わす如く絶対軸として有る。そこで先生は、この上部構造なる精神現象面(ソフト面)は、物質現象面(ハード面)いわゆる下部構造面と相切するといわれる。これは如何なるものでも成立つはずであるから、今、私の考ている科学世界について、これを映し出してみよう。

被造世界は物質現象面なるハードの世界と精神現象面なるソフトの世界に分けられている。ハード面の科学即ち物質現象面では自然科学で位置し、基礎的なものに理学、即ち物理学、化学、生物学等であり、応用面では工学、医学等になる。ここでハードとソフトの境界にある一人性の軸、このハード側でより原点側に分子生物学や生命科学等を含む基礎科学となる量子力学が位置する。これよりなお離れて医学があり、物質現象面のより沖合いでは、自然科学一般の基礎となる物理、化学、生物学がある。

次に一人性軸に直交する社会性軸の物質現象面側には、より軸の近くに量子統計力学があり、これから沖合いに向ってあらゆる工学が位置する。電気工学であり、機械工学であり、材料科学であり、化学工学であり、栄養科学等々である。

次に一人性軸のソフト側ではより原点側に哲学、続いて心理学がある。又、精神現象面のより沖合いに文学があるが、これは対人性軸をこえ社会性にまで広く表現する。対人性軸付近には倫理学があり、国家政治面側には社会学が位置する。

次に対人性軸と社会性軸をはさむ沖合いは、経済学あり法学あり政治学あり、一般の人文科学系が位置する。ここで社会性軸ソフト側の経済学はこの軸を超えて統計力学に隣接しているが、統計力学で論じられる自然界の物性を理論的に導出する分布関数は、形を変えて考えれば直ちに経済学の論する所であることは興味深い。

ここで物質現象面、精神現象面、社会現象面なる二次元面がまじわり、これよりなる線は確かに一次元で、面の性質の延長で説明がつくというものではない事は明かである。数学的にも次元の違うもの同士を一緒に説明し得ない。確かに先生の言われるように、「説明つかぬ線」としか言いようがない。このように分かれた象面に分布する科学は、すべてを一つとして論じ得ないことは、現在ある通りである。

それではその三基軸を集約する原点を対象とする科学とは何か。これが神学の任務である。神学は原点を追求する学問である。

3基軸の切り結ぶ原点に在られる神、これがこの世では三つの基軸に分節して、世界人生、歴史世界のそこに迫ってこられる。これは上述の科学世界においてしかり、私の全実存に迫る活ける神もそのようであられる。

(二)ところで次に限界は構造をもつ。それが根源的な意義・位相における「対象性」である。(中略)かれにおいては限界(人間存在の場)と対象化(人格性)が剥離する。……

この文は、一切は神の手中にあって、神の似姿に造られた人間を思い起す。人間存在の場は神の似姿として、対象化されている人格性できまる。この構造を見極めないならば対象化が対象性の対象化ではなく、対象化それ自体として孤立的・抽象的に措定せられるという意味なのか?

(三)最後に、対象性が限界においてそれとして見極められて初めて、対象化の・歴史世界のさまざまな象面における・あらわれ、位相、意義が確定されることができるのである。……

この文は(一)及び(二)を了解すれば、結果として(三)にならざるを得ない事が了解できる。

本序文の考察は自分に迫って来ることとして考えを進めなければ、文が宙をまわって決して理解する事が出来ない。しかし私に迫られる活ける神のありかたとして深く考える時、がっちりと思い当たる事であるという結論でもって話し合いを終えた。

以 上


次  回

期 日:2003年6月30日(月) 午後2時〜5時
場 所:木原宅
テキスト:仏教的キリスト教の真理  第三章 人間と神 (一)限界の意識

2003.6.26

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ヨルダン会在家集会(13)議事録

日 時 2003年6月23日(月)14時30分〜17時
場 所 木原宅
参加者 市村兄 市村姉 横井兄 木原祐姉 木原法姉 木原和彦 (計6名)

 今日は神戸方3人、横井姉の運転する車ではるばる木原宅まで―――休憩する時間もなく姉は帰られた。姉の御好意に厚く感謝。 わんちゃんが車に同乗、木原宅近所の緑の山中に降ろしてもらって寸暇を楽しんだ。一方、私は午前中、枚岡教会恒例の「釜が崎おにぎり炊き出し奉仕」に行っていたために今日の開会は30分遅くなった。
今日のテキストは仏教的キリスト教の真理 第三章 人間と神の一、限界の意識である。

学びの要旨:第三章 人間と神

1.限界の意識

この世で「人間と神」というテーマがある種の必然性をもって出現してくるとき、つねに携えているのは限界の意識であるとされ、その限界の意識がどの程度厳密かを、本節で問われる。そこでまず一般に考える限界意識について、週刊誌の話題を例にして語られる。

「大特集 終末の時代」「秋にも食糧危機!日本・イギリス自給率最下位争い」「子孫の血肉を食う“われらの一億”黒い花咲く終末文化」等々。

 ここで、「このように社会の表層に限界の意識が浮き出してくるとき、これに乗っ掛る格好で『人間と神』というテーマを問題にする、或いは逆にこの種のテーマを不問に付すことこそが、かえって社会の表層の限界意識を下部構造の方から叩き尽くす批判活動の論理的帰結として唯一正当だと断ずることも可能だと思う」と言われる。(傍点のヵ所、私、木原はその意味が理解出来ない、例えば戦前のラデイカリズムのごときをさしていると考えてよいのだろうか?)ここで先生はいずれにも与することは出来ないと言われる。この理由について、「両者とも人びとの限界意識を意識の問題として・批判的に解明する手法を採らないからである」と、加えて、限界の問題を解明するのでなく、互いの立場をテーマテイッシュに主張しあっているだけだと言われる。

 言われるように、確かにこれは学問にとっての最大の禁物・邪道であるメタバシスであろう。 (確かに私にもそう思える。問題があまりに難解故、がぶり四つに取っ組むことすらわからない。それ故、自然に安易な方向に流れる盲目のままのイズムのぶっつかり合いであり、自己反省のないままにメタバシスを犯すのか……。この種の問題は特に批判的解明からのみ真理を知る事がになるのかも知れない)

 次に50年前のキリスト教界も別様でないとして、下記の小田の文が紹介される。
 「我等が路を歩き、目に見、耳にきくところのものは、すべて終末的な淫蕩的風潮と無神論的行動主義の交錯である。…… 然らば、かかる現代の歴史的危機に於て、我々プロテスタントに与えられし使命は何であろうか。……つまりは『霊的危機超克運動』への参加という使命である。」

 この霊的危機超克運動は、いわゆる「危機神学」と「社会的基督教」とが、原理的問題に対する解法の相違はそのままで、いたずらに使命感を昂ぶらせ、不徹底なイズムで牽制し合いつつ、太平洋戦争直前に文部省の統合策になだれ込んで戦争協力の形をとった。

この歴史事実を先生は深く反省され、これより先生の固有の「限界問題」を展開される。この手法は「意識を批判的に解明する」であるが、これについて、次のように述べられる。
「……むしろ、『限界』と言う事柄の厳密な解明・把握――真の限界意識――を『人間と神』という設問のなかに考究・発見していたはずなのである。つまり、ギリギリのところ、『人間と神』以外『限界』を定義するものはないと識ったはずなのである。

むろん、これは意識の問題(対象)である。しかしけっして意識と同等のことではない。もし、ここでいう『限界』が意識と同等ならば、そもそもその意識を批判するというようなことは出てこない。普通にいう内省とか自省とかは、意識を絶対に超えると同時に瞬時も意識を離れることのない『限界』があってこそ、初めて成り立ってきているのでなくてはならない。このところの消息・構造に注目するとき、意識の問題の批判的解明はけっしてたんにそれだけで終るものでないこともまた、必然的に明かになってくる。……」


同じ戦前、ヨーロッパではE・ブルンナーが「限界」の問題と取組みナドルブの『人間性の限界内における宗教』を学んでいるが、これも人文主義者的なものを越えず、決して満足できるものはなかった。更に彼は、カントの解釈、シュライエルマッヘルの解釈、ヘーゲルの解釈を通覧した後、「限界」について下記のように述べている。。
 「だが福音的また宗教改革的信仰がその方向を得るのは体験においてではなく、人間においてでもなく、ただ神においてである。一歩一歩と自己を実現する自由ではなくて罪責と贖いとが、内在的な思考過程ではなくて神と人間とをもっとも懸絶させる二元論が、発展の誇らかに上昇する直線ではなくて十字架の中断された線が――かくのごときものが、あらゆる人文主義者の耳に不愉快にひびくところの宗教の主題である。」
 この文について、先生は「ブルンナーは入口に達した」と評価される。しかし、次の文を読む限り、彼もまだ「人文主義者」にとどまっているとも言われる。

「それじ自体で存在する真理の『理念』にわれわれが関与していないならば、われわれの思考はいずこに留まりうるだろうか。われわれが絶対的善の理念に関係づけられていないならば、われわれの道徳的不従足性がわれわれを不安にすることもないであろう。(中略)したがって、『真理のうちに立っていないこと』よりも、真理自体がわれわれに属していることの方がさらに根源的である。そうでなかったなら真理自体がわれわれにかかる窮乏を告げしめることはできないであろう」

では先生のいはれる「限界」とは何を意味するか。これが次節の限界の事理で説かれる「神人の断絶即連続」である。

本章一、二、三 は、先生の説かれるイエス様の十字架の意味を理解する上で最も重要な文面である。ごまかしによらず、考えに考え貫き、苦しみに苦しんで後に、私達の理性の延長に聖霊によってひらめく当然の真理であろうと思う。先生のキリスト教を学ぶ私達は、この章を完全に自分のものとしたい。

次  回:

期 日:2003年7月21日(月)14時〜17時
場 所:木原宅
テキスト:仏教的キリスト教の真理 第三章 2.限界の事理

 
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