学長室だより

聞かれない祈りと聞かれる祈り(2017.1.20 C.A.H.)

聖書:第二コリント書12:1-10

今年は宗教改革500年の記念すべき年に当たります。ルターの宗教改革はパウロの精神を再発見することから始まりました。宗教改革500年と関連して、『パウロ』と題した入門書が昨年のクリスマスに岩波新書として出ました。著者の青野太潮先生は4月14日に本学の新入生歓迎公開学術講演会に来て講演してくださいます。

20170120チャペル・アッセンブリ・アワー1

 

先ほど読んでいただいた聖書箇所からパウロの生涯の転換点、「第二の回心」とも言うべきテキストから「聞かれない祈りと聞かれる祈り」について考えてみたいと思います。この問いは「新約聖書の世界」という授業でローマ書を取り上げている中で、パウロの祈り(ローマ15:30-32)を説明した時に「その祈りは聞かれなかったのですか」という学生の質問があったことから、今日は第二コリント書の祈りを取り上げて考えてみたいと思います。

パウロという人物は、一言で分かりやすく言うと、三回の世界宣教旅行を通してキリスト教を異邦人世界に広めた人、キリスト教を世界宗教にした人と言うことができるでしょう。かつてのパウロはユダヤ教に熱心でキリスト教はユダヤ教を破壊するためメシア運動であると考えてキリスト教を迫害していました。しかし、ダマスコ途上で復活したキリストに出会う宗教的な経験を通して、キリスト教の迫害者から宣教者に180度転換する劇的な回心をしたことは、皆さんよくご存じのとおりです。

今日のテキストは、パウロを批判している議論の相手に対して弁明している箇所ですが、パウロの回心と第一次宣教旅行の間のできごと、パウロが何をしていたのか詳しく分からない、言わば「トンネル時代」のできごとについて自分の経験に基づいて証ししています。

12章1-10節ではそれらを具体的に証しする例として、パウロが経験した二つのエピソードを紹介しています。すなわち、12章1-6節の「第三の天」にまで挙げられた経験と7-9節の「肉体のとげ」の経験です。すなわち、パウロの「天国と地獄」の経験、「栄光と悲惨」の経験です。10節はそれらの経験をまとめた結びの言葉です。

パウロはこの直前の11章後半でも、「愚か者」になって「苦難」と「弱さ」を誇りました。ここでも同じように「愚か者」として「誇らずにいられず」、「主が見せてくださった」「啓示」として自分の経験を語ります(1節)。
しかし、最初は誇ることがないように「キリストに結ばれていた(キリストにある)一人の人」という三人称の他人の経験として語り始めます。この手紙が書かれた「14年前」とは紀元42年ころ、すなわち回心の経験の後7年経った恐らくパウロの40代前半の経験であったと思われます(2節前半)。

「第三の天」とは、古代・中世の宇宙観は現代人の宇宙観とは異なり、地動説ではなく天動説を前提にして、地球の大地の周りにドーム状の天蓋が層を成して覆い、そのドーム状の天蓋に惑星が付いていて回転すると考えられていました。天蓋の数は、時代や地域によって三層、七層、十層(ダンテ『神曲』)と異なりますが、ここでは「第三の天」は三層を成した宇宙観の最上層です。「引き上げられる」とは、エクスタシーで天に挙げられた後に天上の世界を旅する神秘的な宗教経験です(2節後半)。

「体のままか、体を離れてか」魂のみが、あるいは肉体と魂が一緒になって天上の世界を旅する宗教経験は、へレニズム世界の宗教経験で報告されています。プラトンの『ファイドン』『ファイドロス』などによるギリシアでは「体を離れて」、エノク書などによるユダヤ教文書では「体のまま」天上の世界を旅します。パウロはそのどちらであるか詳細については言及しないことを二度も繰り返して強調しています。

「楽園」(パラダイス)は最上天(第三の天)の上にあると考えられていました。そこには黙示録4、5章に描かれているように、おびただしい天使に囲まれて、その中央には神の座があります。時代が下って、中世のダンテの『神曲・天国篇』では第九天に諸天使たちがおり、その上の第十天に神の座があり、天使と神の座は分けて描かれています。パウロに戻って「パラダイス」では「人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉」とは「天使の話す言葉」、「天使たちの異言」(Ⅰコリント13:1)です。

パウロは、三人称の「このような人」と一人称の「自分自身」を区別しています(5節)。しかし、「仮に私が誇る気になったとしても」「真実を語るのだから」でそれが自分の経験であることをほのめかします。「私のことを…過大評価」しないように、「だが、誇るまい」で、自分の経験であることを語るまいとします(6節)。

しかし、「あの啓示されたこと」は「第三の天」に挙げられた「あまりにすばらしい」経験です。「思いあがることがないように」から、6節までと7節からが、同一人物の経験であることが分かります。「思いあがることがないように」を二度繰り返しています。その経験は「誇り」であり「有頂天の経験」であったのです(7節)。

だが一転して、有頂天になるような経験からいきなり地獄に落とされるような経験をします。「身に(肉体の)一つのとげ」とは、肉体に刺さった「とげ」とは、人から見れば小さなものですが、「痛み」が全身に走るようなものの象徴です。具体的には何であるかは分かりません。パウロの身体的な病で(眼に症状が出ている病?ガラテヤ4:14-15)、時間を置いて「痛み」が襲う持病があったのでしょうか、演説の素人で雄弁でなかったことでしょうか、「吃音」(どもり)であったのでしょうか(Ⅱコリント10:10、11:5)。

「肉体のとげ」は「私を痛みつける、サタンから送られた使い」と言い換えられています。それは「痛み」であり、天上の「天の使い」にまみえる「楽園(パラダイス)」とは正反対の「サタンの使い」に襲われる「地獄」の経験であったのです。天上の世界の経験の直後に栄光から悲惨へ、地獄の底に突き落される経験をしたのです。

「離れさせてくださるように」痛みと苦しみの経験を逃れるために、「三度主に願いました」(8節)「三度」は象徴的に数多くという意味で、何度も何度も主に祈り求めたのです。パウロの悩みが深かったことが暗示されます。この祈りは聞かれたのでしょうか。

「私の恵みはあなたに十分である。神の力は弱さの中でこそ十分に発揮されるからだ」(9節)「弱さ」という言葉は、「病」をも意味します(ギリシア語では両方とも「アスセネイア」です)。パウロはこの「肉体のトゲ」の経験を通して「十字架」というキリスト教の真理を体得したのです。「痛み」「弱さ」である「肉体のトゲ」そのものが「恵み」であるという逆説的な理解に到達したのです。「十分に達成される」という言葉は直訳すると「完成する」「目的に達する」「終わる」という意味です。「神の力は人間の弱さの中で」「完成する」「目的に達する」「終わる」という真理をパウロは体得したのです。「キリストの十字架」の意味を我がこととして体得したのです。

パウロの「肉体のトゲ」という「自分の弱点を取り除いてください」という「三度祈った」祈りは聞かれたのでしょうか。肉体的な「弱さ」あるいは「病」が取り去られなかった、という意味では、祈りは聞かれなかったのです。しかし、「神の力は弱さの中でこそ十分に発揮される」という真理を悟って、「私は弱い時にこそ強い」という確信をもって、深い精神的な悩みから解放されたという意味では、祈りは聞かれたのです。言葉を変えて言えば、祈りは文字通りには聞かれませんでしたが、形を変えて問題が解決した点で聞かれたのです。  

このような意味で、熱心に祈り続けると祈りは聞かれるのです。これからの人生の中でいろいろなことがあると思います。右も左も行き詰まり、前も後も行き詰まり、絶体絶命というほどに追いつめられる状況に陥ることがあるかもしれません。しかし、そんな時にも空は塞がっていません。天を仰いで祈りましょう。文字通りに祈りが聞かれるか、形を変えて祈りが聞かれるかありますが、祈りは聞かれるのです。祈りは何十年も経った後に実現することがあるかもしれません。

私は47年前に大学入学と同時にキリスト者の会というサークルを立ち上げました。その時の祈りはメンバーを10人にしてくださいでした。卒業までにはその祈りは聞かれませんでしたが、17年前の創立30周年記念会の時に、在学生と卒業生合わせ百人以上のメンバーの名簿があり、そこから多くの牧師や教師を輩出していることを知りました。大学卒業のころは、キリスト教の学校を建てたいと祈っていました。一昨年学長に就任した時に、かつての祈りを思い出して、それが形を変えて実現していることを知りました。継続は力です。祈りましょう。

   祈り
        石原吉郎

祈りは ことのほか
やさしかつた
悔多い やわらかな
てのひらのなかで

祈ることは やはり
うれしかつた
てのひらのなかで 風が
あたたかにうごいていた

祈りのなかで
午前がすぎそして
午後がかさなつた
時刻はさみしく しかし
きよらかにすぎた

夜がきて 星がかがやいた
私はその理由を考えなかつた
私は てのひらのなかで
夜あけまで起きていた

(山田 耕太)