神を敬い、人に仕える(4代目学長 山田耕太)

新潟の音楽・文学・美術の萌芽とその後(2019. 10. 13全国外国人居留地研究会横浜大会)[2019-10-13]

「新潟の音楽・文学・美術の萌芽とその後」について、スライドを用いてご説明します。その中で、影響史という視点を用いて跡づけ、またパトロンとなった白勢家やパーム家の人々との関係も指摘したいと思います。

新潟は日米修好通商条約等に基づいて開港5港の一つとして開港しました。新潟は大阪から函館までを巡る北前船の重要な寄港地でしたので、開港5港の一つに選ばれました。ところが横浜と神戸が開港すると、太平洋航路が開かれて、表日本と裏日本が逆転して、明治以後は太平洋側が表日本となりました。

今年は新潟開港150周年の年です。新潟は北越戊辰戦争の影響により、また港が信濃川河口にあり浅瀬で浚渫する必要があったことにより、1年遅れて1869年(明治2年)に開港しました。新潟の外国人居住者は領事・商人・宣教師とその家族合わせて、多い時でも20数人程度でした。新潟には居留地が存在せず、雑居地しかありませんでした。税関の建物(現在の新潟市博物館)の隣接地が居留地として計画されたこともありましたが実現しませんでした。

第一に、音楽の芽生えについてです。1869年10月にS.R.ブラウン宣教師はその妻とメアリー・キダーを伴って、官立新潟英学校の教師として新潟に来ました。やがて男子生徒たちの求めに応じて、ブラウンは日曜日に自宅の宣教師館で聖書を教えました。キダーも宣教師館で英語を教えました。キダーはブラウンの教会でもニューヨークの教会でも教会学校の教師をしていたので、新潟でも子供讃美歌を教えました。その中で、最もよく歌われたのは、“Jesus loves me”「エスワレヲ愛シマス(主我を愛す)」でした。ブラウンは後に聖書翻訳ばかりでなく、一致教会系の讃美歌集の編纂にも携わりしました。明治初期の讃美歌が小学唱歌に与えた影響は、手代木俊一著『讃美歌・聖歌と日本の近代』(音楽之友社、1999年)に譲ります。

開港当時はまだキリスト教は禁教であったので、ブラウンは1870年(明治3年)6月にはキリスト教を説いた廉で解雇され横浜に戻りました。横浜ブラウン塾は明治学院の基に、横浜キダー塾はフェリス女学院の始めとなりました。『キダー書簡集』によれば、キダーはお別れ遠足に新発田に来たと記されていることから、キダーは新発田の白勢家と深い関係があったことが分かります。キダーが来たのは、新発田の白勢宗家でした。当主は白勢成煕(ありあき)で、30歳で第十代当主に就いたばかりでした。キダーは10歳前後の白勢成煕の長男の和一郎に英語を教えたと思われます。和一郎はその後1876年(明治9年)に、17歳の時に『泰西列女伝』(上下2巻抄訳)を訳して出版しました。

白勢家は、市島家と並んで江戸時代から明治時代にかけて新潟平野で千町歩地主という大地主の一つでした。白勢家の先祖は、堀氏の家臣として伊勢から村上に国替えで移ってきましたが、堀氏の滅亡と共に新発田の町人町の材木町に移り住んで、質屋を始め、さらに多角的に商業を営み、やがて新田開発や農地の買い集めで、大地主になり、幕末まで新発田藩の大財閥であるばかりでなく、村上藩や長岡藩や会津藩にも、多額の金を貸す豪商となっていました。新発田の白勢宗家から、江戸時代半ばには金塚の白勢本家が分かれていき、明治維新の時に白勢本家から新潟白勢家が分かれていきました。

新発田の白勢宗家も新潟白勢家も1888年(明治11年)の明治天皇の北陸巡行の際には天皇が宿泊する行在所(あんざいしょ)となりました。白勢家は市島家と共に新潟開港にも財政的に尽力し、新潟の財界にも貢献しました。新潟白勢家の初代当主の白勢彦次郎は国立第四銀行(後の第四銀行)支配人となりました。しかし、白勢家は明治時代に海運業で失敗し、新発田の白勢宗家は明治半ばの火事で焼けて五十公野に移り、白勢家は最終的には戦後の農地改革で解体していきました。

第二に、文学の芽生えについてです。キダーが新潟で英語を教えた女学生の一人の上田悌子は、1872年に岩倉具視を団長とした遣欧使節団の5人の女子留学生の一人としてアメリカ留学しましたが、体調不良で1年余りで帰国しました。悌子の父上田友助(明治以後は上田畯)は幕末に1年半の間、遣欧使節団・遣露使節団の経験がありました。悌子の姉孝子と婿の絅二(絅二の父も幕末に遣仏使節団の経験があります)との間に生まれた上田敏は、幼くして見た築地居留地でのクリスマスの光景を自伝的小説『うずまき』の中で記しています。また、父親の単身赴任のため7歳の時には母と共に1年間、叔母悌子の家で育つ経験をし、異国情緒の漂う家庭環境で育ちました。上田敏は旧制第一高等学校に入学すると16才で『校友会雑誌』に「文学に就いて」という早熟な論文を発表し、19歳の時に北村透谷や島崎藤村らの『文学界』の同人になり、21歳の時に『帝国文学』の創刊に関わり、それらで発表した論文や訳詩を元にして28歳で『詩聖ダンテ』(1901)を、32歳で『海潮音』(1905)を出版しました。

1875年(明治8年)4月に新潟に宣教師として初めてに来港したのは、T.A.パームでした。パームは医療宣教師として新潟に来てパーム病院を開院して宣教にあたりました。やがて横浜公会から派遣された押川方義がパームを助け、石油開発に中条に来ていた吉田亀太郎も押川の説教を聞いてキリスト教に回心し、押川の宣教活動に加わり、パーム病院は医療活動と宣教活動を展開していきました。また、パーム病院は押川の指導で神学塾の働きもしていました。

1880年(明治13年)に新潟大火が起こると押川と吉田は、パームの父親(オランダ・アムステルダムのスコットランド人教会牧師)の支援を受けて「東北地方を日本のスコットランドに」と仙台を拠点として東北地方の宣教活動を展開していきました。押川らは仙台神学校(後の東北学院)と宮城女学校(後の宮城学院)を開校し、押川は仙台神学校で神学を教え、東北学院の初代院長になりました。その弟子の一人に北越学館が閉鎖されて編入してきた新発田・上館出身の山川丙三郎がいました。山川が在学中に島崎藤村が東北学院の教師として着任し、山川は藤村によって文学的な目が開かれ、藤村の文学仲間の上田敏を通してダンテにも関心を持ちました。苦学して東北学院を卒業した後、カリフォルニア大学バークレー校で中世英語やイタリア語や当代一流のダンテ学者の下で学びました。帰国後に雑司ヶ谷の新井奧邃の謙和舎という塾の中で極貧の中で、大賀壽吉による最先端の研究支援を受けながらダンテの『神曲』を翻訳して出版しました。

第三に、美術の芽生えについてです。新潟の風景スケッチを最初に描いたのは、1870年(明治3年)に新潟を訪れたチャールズ・ワーグマンです。ワーグマンから西洋絵画を学んだ東京の五姓田芳柳や五姓田義松らの五姓田派の画塾生の一人に山本芳翠がいました。山本はパリ留学中に果樹栽培を学ぶために20歳の時から2年間パリに滞在していた白勢和一郎と知り合い、白勢和一郎の支援の下で、日本で最初の「裸婦」像を始め次々と絵を描いていきました。山本はパリに法学の勉強に来ていた黒田清輝の画才を見抜いて絵を学ぶことを強く勧め、黒田はパリの画塾に入って画家の道を進み、帰国後に日本を代表する西洋絵画の大家で美術教育の指導者となりました。白勢宗家の跡地に立つ桂医院には、長い間、山本芳翠がパリ留学時代に描いて白勢和一郎が買い求めた「裸婦」と「若い娘の肖像」が待合室に飾られていました。それらは現在、芳翠の出身地である岐阜県美術館に飾られています。

新潟居留地は、居留地はなく雑居地のみで、そこを訪れた定住した外国人の数も極めて少ないながら、ここではS.R.ブラウン、M.キダー、T.A.パームという定住した宣教師や、ワーグマンと五姓田派の画家という旅人が蒔いた音楽・文学・美術の種が、人々の間に次第に影響を与えながら芽生え育っていきました。
影響史的関係をまとめますと、音楽では、S.R.ブラウンとキダーは「主我を愛す」に代表される讃美歌の種をまきましたが、それは小学唱歌にも多大な影響を与えていきました。
文学では、キダーに英語を学んだ生徒には上田悌子ばかりでなく白勢和一郎がいたと推測されます。上田悌子は甥の上田敏に影響を与え、上田敏と島崎藤村ならびにパーム宣教師の片腕となった押川方義は、ダンテ研究家の山川丙三郎に文学的ならびに神学的影響を与えました。
美術では、新潟で最初に絵画を描いたのはワーグマンとその弟子の五姓田芳柳と五姓田義松らの五姓田派の人々でした。また、五姓田派の人々の下で学んだ山本芳翠は、パリで黒田清輝を法学から画家への道に導きましたが、パリでは白勢和一郎が芳翠の経済的支援者となっていました。
このように、新潟に撒かれた種がやがて日本の音楽・文学・美術に影響を与えていく端緒を垣間見てきましたが、そこにはパトロンとして白勢家の人々やパーム宣教師の父親がいたことを併せて指摘してきました。
ご清聴有難うございました。(新潟居留地研究会会長 山田耕太)

パワーポイント資料「新潟の音楽・文学・美術の萌芽とその後」(pdf形式、2.03MB)

全国外国人居留地研究会横浜大会

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