神を敬い、人に仕える(4代目学長 山田耕太)

「イエスと自然(マタイ5:43-48)」 (2017.6.16 C.A.H.)[2017-06-16]

街中の家々の庭では、さまざまなバラの花が咲き、大学近くの聖籠町の二宮邸のバラ園では、匂うが如くバラが咲いています。五十公野公園では3万株のアヤメが咲いています。6月の空の下で、赤や白、紫や黄色などの色とりどりのさまざまな花が咲いています。

20170616チャペル・アッセンブリ・アワー1

 

私たちはどのようにして神の存在を知ることができるのでしょうか。カルヴァンという人は『キリスト教綱要』の中で、第一に自然を通して、第二に良心を通して、第三に聖書を通して、神を知ることができると述べています。今日はマタイ福音書5章43-48節から美しい自然の背後にある神の働きについて思いを巡らしてみましょう。

イエスは人間がいかに生きるのか、人は何のために生きるのか、という人生最大の問題に対して、当時のユダヤ人も現代のユダヤ人も生きる指針として最も大切な「十戒」の前半と後半を要約して、「神を愛し、隣人を愛する」ことと教えました(マルコ12:28-34)。すなわちイエスは「十戒」を「愛に生きる」という「愛の精神」で解釈し直したのです。ここがユダヤ教とキリスト教の分水嶺・分岐点があります。

敬和学園の「敬和」という名前は、「神を愛し、隣人を愛し、愛に生きる」という「最大の戒め」のエピソードに由来しています。今から50年前に敬和学園高校が創立された時に、初代校長の太田俊雄は、「神を愛する」を「神を敬う」に「隣人を愛する」を「隣人と和する」と日本的文脈に置き換えて、「敬和」と名付けました。

今日の聖書か所では「隣人愛」が煮詰まって「敵愛」にまで高められています。そもそも「敵」とは誰でしょうか。「敵」は「憎む」という動詞から派生している名詞で別の訳は「憎む人」です。「敵」とは「あなたに対立し、反対し」そこから感情がこじれて、「あなたに対して憎しみの感情を抱くようになった人」のことです。

イエスは「あなたの敵を愛しなさい」と最初に一般的に述べた後で、次にあなたに嫌がらせを言い、行動で脅してくる「迫害する人のために祈れ」と具体的な行為を言います。「敵を愛する」とは「相手のために祈る」祈り心を持つことを指しているのです。イエスはなぜ「敵を愛し、迫害する人のために祈れ」と教えるのでしょうか。

その根拠となっているのはイエスの自然観です。イエスの自然観の背後にある天地創造の神に絶対的な信頼を寄せているイエスの信仰です。イエスは幼子が父親を呼びかける「アッバ」という言葉で神を「父」と呼びます。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)。

人間の「憎しみ」の感情によって「敵」「味方」を区別し、人間の判断基準によって「善・悪」や「正しい・正しくない」という線引きをして、対立し差別していく人間の世界。人間の世界の相対的な区別や線引きを越えて、大自然を創造し支配している神は平等で、太陽の恵みや雨の恵みは等しく及ぶことを指摘しています。それを根拠にして「敵を愛し、迫害する人のために祈れ」と教えるのです。

このイエスの自然観は「何を食べ、何を着ようかと思い煩うな」と語りかけた教えにも見られます。「空の鳥を見よ、野の花を見よ」(ルカ12:22-31)にも見られます。「空の鳥(オリジナル版は人に嫌われている「カラス」)、は種もまかず、刈り入れもせず、納屋に収めることもしない。」「野の花は働きもせず紡ぎもしない。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。今日は野にあって、明日は(焚き付けとして)炉に投げ込まれる草でさえ神はこのように装ってくださる。ましてあなたがたはなおのことである。」

敵愛の教えは、「あなたがたの天の父が憐み深いようにあなたがたも憐み深くなりなさい」(ルカ6:36。マタイ版では「憐れみ深い人」は「完全な人」という解釈で置き替え)という言葉で結ばれます。すなわち、「敵を愛する人」とは「憐み深い人」であることが表明されます。よきサマリア人のように「苦しんでいる人」に「深い憐れみの心」から「隣人となる人」でもあります。「愛する」「憐れみ深い」とは「赦す」「和解する」と同じで、「徹底して赦す人」(ルカ17:4)や「訴える人と和解する人」(ルカ12:58-59)にも通じます。「憐み深い人」になりたいものです。大自然を仰いで、花を見、鳥の音を聴き、イエスの言葉を思い出しましょう。祈りましょう。(山田 耕太)

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