学長室だより

敬和の心(2015.4.24 C.A.H.)

「第一の掟はこれである。『イスラエルよ、聞け、私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの掟に優る掟はほかにない。」(マルコ福音書12:29-31)

20150424チャペル・アッセンブリ・アワー

 

「敬和」という名前は、新約聖書の「最も大切な戒め」(マルコ福音書12章28-34節)に由来します。この短いエピソードには、キリスト教の教えの核心である「神への愛」と「隣人愛」が記されています。「隣人愛」というキリスト教の代名詞となっているエピソードは実はこのマルコ福音書に由来するのです。
イエスはユダヤ教の専門家に聖書の中で最も大切な教えは何かと問われました。ユダヤ教には613の戒めがあります。その中には約350の「何々してはいけない」という禁止の戒めと約250の「何々しなければいけない」という命令の戒めがあり、その中心には「モーセの十戒」という十の言葉があります。その中で最大の戒めは何かと問われたのです。
「モーセの十戒」の前半は、神に関する4つの戒め、すなわち「私の他に神があってはならない」という神は唯一という第一の戒め、「あなたはいかなる像を造ってはならない」という偶像禁止の第二の戒め、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という自己正当化のために神の名の使用を禁止する第三の戒め、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という7日に一日仕事を休んで神を礼拝せよという第四の戒めで構成されています。イエスはそれを全身全霊で「神を愛せよ」という言葉で要約しました。
十戒の後半は、人間に関する6つの戒め、すなわち「あなたの父母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」「隣人の家のもの(畑、土地、家、子供など)を欲してはならない」という第五戒から第十戒で構成されています。イエスはそれを「自分を愛するように隣人を愛せよ」という言葉で要約して答えました。すなわち、十戒の前半も後半も、「何々してはならない」という否定的な禁止の言葉ではなく、「愛せよ」という極めて積極的な言葉で要約したのです。
イエスが要約した言葉自体は、イエス時代から現代に至るまで、ユダヤ人であれば誰でもが知っている旧約聖書の言葉でした。「神を愛せよ」(申命記6章4節)はユダヤ人が一日三度祈る祈りの冒頭の言葉であり、「隣人愛」(レビ記19章18節)は十戒をもう一度言い直した箇所の言葉でした。
イエスのユニークさは、十戒を積極的な「愛の精神」で解釈した点にあります。イエスは「モーセの十戒」の厳しい戒めの背後に愛の精神を見出したのです。すなわち、神を愛していれば、神を冒涜することもせず、隣人を愛していれば人間を犯すこともしない、と解釈したのです。イエスがこのような解釈をすることができたのは、イエスが物事の本質を見抜く洞察力に優れていたばかりでなく、その心が愛に溢れていたからです。また、誰でも知っている言葉でそれを要約して伝達する力に優れていたからです。ここがユダヤ教からキリスト教が分かれていく分水嶺なのです。

20150424チャペル・アッセンブリ・アワー

 

今から48年前に敬和学園高校を始める際に、太田俊雄初代校長は、「神を愛する」を「神を敬う」、「隣人を愛する」を「隣人と和する」と日本的な文脈で表現し直して、「敬和」と名付けました。「神を愛する」ことは「隣人を愛する」ことに繋がり、「隣人を愛する」ことは「神を愛する」ことに繋がります。敬和学園大学の校歌では冒頭の2行で「神を敬い、人に仕える」と歌い、「人を愛する」ことは「人に仕える」こととして表現されています。すなわち「隣人愛」は、具体的には職業などを通して「人に仕えること」と表現されています。これは約500年前にルターが『キリスト者の自由』で指摘した点です。すなわち「ヒューマン・サービス」を通して、「人に仕える」ことが「隣人愛」のなのです。敬和学園大学が、愛と希望に溢れる「学びの共同体」でありたいと願っています。(山田 耕太)