学長室だより

ルツとナオミ・その6

ルツが再び落ち穂を拾い始めようとすると、ボアズは「麦束の間でもあの娘には拾わせるがよい。止めてはならぬ」(ルツ記2章15節)と若者に命じています。「麦束の間」という言葉に疑問を感じないかもしれません。古代メソポタミアが有数の穀倉地帯であったのは、シュメール人たちがすじ蒔きの技法を開発していたからです。種蒔く人は、無造作に種を蒔き散らしたのではないのです(マタイによる福音書13章1節~9節)。麦の穂が一列に並ぶように種を集約的に蒔く技法です。収穫時にこれがどのような便宜をもたらしたかについて、多くを語る必要はないでしょう。「麦束」は刈り取って束ねたものを意味するかもしれません。ボアズが「刈り取った束から穂を抜いて落としておくのだ。あの娘がそれを拾うのをとがめてはならぬ」(16節)と若者に命じているからです。
このような配慮を旧約聖書はアハバー(愛)とヘセド(憐れみ)という言葉で表現します。前者は神との契約や神の選びに関わる場合にしばしば使われますから、ボアズの場合はヘセドの方が相応しいかと思われます。ヘセドとは、憐れみのこもった振る舞い、自己犠牲を伴った配慮、おもいやり等をあらわす概念で、「慈愛、慈悲、誠実さ」とでも訳すべき言葉です。(鈴木 佳秀)