学長室だより

「思い悩むな」(2016.1.22 C.A.H.)

現代人の多くの人々は、心の中に理由がはっきりしない不安をかかえています。現代は将来に対して希望を持ちにくい時代になっています。「私の将来はどうなるのだろうか。」「私は何をして生きていくのか。」「私は仕事につくことができるだろうか。」「私にはその能力があるだろうか。」「私のついた仕事をいつまで続けることができるだろうか。」・・・不安や悩みは尽きません。まして試験やレポートが数多くあると不安が一段と増します。
 
20160122チャペル・アッセンブリ・アワー1

 

 「命のことで何を食べようか、身体のことで何を着ようかと思い悩むな。」(マタイ6:25a)
イエスの周りにも、さまざまな不安をかかえている人々が集っていました。「何を食べようか。何を着ようか」と、今日食べるパンや明日着る服にも事欠く、貧しい人々が大勢いました。イエスはそれらの人々に向かって、「何を食べようか、何を着ようかと思い悩むな」と声を掛けました。「思い悩むな」とは「思い煩うな」ということです。心の中の不安や悩みが度を越えて、考えるだけ心がふさがってしまうほど煩っていたのです。

 「命は食べ物よりも大切ではないか。体は衣服よりも大切ではないか。」(マタイ6:25b)
イエスはそのような人々の心を、まったく違った方向に向けさせていきます。第一に、「何を食べようか、何を着ようか」と食べ物や衣服に注がれていた心を、それらよりももっと本質的な「命」と「体」に向けさせます。そして、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だからである」と誰にでもわかる理由を述べます。
 
 「空の鳥(カラス)をよく見なさい。野の花がどのように育つか、注意して見なさい。」(6:26a、28a)
イエスはこの理由を説明するために、第二に、美しい大自然の営みに心を向けさせます。すなわち、大自然の中で小さな「空の鳥」、しかも人に好まれない「カラス」(ルカ12:24)の例を挙げます。また、大自然の中で人知れず美しく咲く小さな「野の花」の例を挙げます。「野の花」はしばしば「百合」と訳されてきましたが、現代では「百合」に限らず「アネモネ」「クロッカス」「グラジオラス」などイエスは野の花を特定しなかったと考えられています。しかし、「カラス」や「野の花」を見る目は、現代人とは大きく違います。イエスは大自然の営みの中に、目に見えない神の支配、すなわち神の国の働きを見ていたのです。
   
 「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に収穫物を収めもしない。働きもせず、紡ぎもしない。」(6:26b,28b)
「カラス」は農夫のように「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に収穫物を収めもしない」が、「神がカラスを養っていてくださる」ことを信仰の目で見ていたのです。また、「野の花」は農夫の妻のように「働きもせず、紡ぎもしない」が、最も繁栄した「ソロモンの栄華」よりも美しく、「神が装っていてくださる」という信仰の目で見ていたのです。現代人は大自然の営みの中で生かされていることを忘れがちです。大自然の中で最も卑しいと考えられた鳥の「カラス」ですら生かされ、小さな「野の花」でさえ装われているのならば、まして「人間」に対して神はなおさらそうである。だから、「思い悩むな」と言うのです。

 「何よりもまず、神の国を求めなさい。」(6:33)
イエスはパンや服という物質的なもの、命や体という目に見えるものから、心の内奥を支配する精神的な目に見えないものに心を向けさせます。神の支配と配慮(ケア)が大自然の最も小さな存在にすら及んでいるのだから、あなたの人生の内にも及んでいる目に見えない神の導きと配慮に目を留めて、「神の国を求めよ」すなわち「神の国が来ますように」と祈れと助言するのです。「神の国」を求めて「神が共にいてくださる」という確信により、心の内側に平安を得ることによって心の問題が解決され、初めて物質的な思い煩いから解放されるのです。
デンマークの哲学者キルケゴールは、不安にさいなまされる現代人を150年前に預言し、不安の根本にある絶望は「死に至る病」であると言いました。また『空の鳥・野の百合』という建徳的講話で、空の鳥と野の花が沈黙の中で、神に従い、歓びの中に生きる「存在の喜び」を指摘しています。イエスの空の鳥・野の花の説教は「心の中心」「心の座標軸」を喪失している現代人に対して「存在の喜びに生きよ」というメッセージなのです。
マタイ福音書のクリスマスメッセージは「インマヌエル」(神は私たちと共にいます)という一言に表現されます。神は私たちの存在そのものを根底から支えてくださる方です。不安が多くあり、悩み多くあり深いですが、大丈夫です。大自然を支配している神が、私たちの存在の根底から支えていてくださるのです。
「思い悩むな」というイエスの精神に近いアッシジのフランシスの「被造物の讃歌」によって祈ります。

 

「被造物の讃歌」(アッシジのフランシス、13世紀)

 いと高き全能の善なる主よ
 あなたこそ、賛美、栄光、誉れ、すべての祝福はあなたのもの
 いと高き方、あなたこそこれらを受けるにふさわしい方
 あなたの名前を呼ぶに値する人は誰一人としていない
 讃えよ、主よ、あらゆる被造物とともに
 とりわけ我が兄弟である太陽こそ 
 我らに日を与え
 あなたは光を与え
 美しく燦々と輝く
 いと高き主よ、太陽はあなたのしるしを我らにもたらす   
 讃えよ、主よ、姉妹である月と星のゆえに
 あなたはそれらを天で明るく高貴に麗しく造りたもう
 讃えよ、主よ、兄弟である風と嵐と大気と雲のゆえに
 それらにより被造物は命を繋ぐ
 讃えよ、主よ、姉妹である水のゆえに
 水はいとも役立ち、いとも賢く
 高貴にして純粋
 讃えよ、主よ、兄弟である火のゆえに
 夜を照らす火は
 美しく陽気
 不屈にして強い
 讃えよ、主よ、我らの母なる姉妹である大地のゆえに
 大地は我らを支え、育み、
 もろもろの果実を生む
 多彩な花々、草々とともに
   
 讃えよ、主よ、あなたの愛のゆえに赦す人々
 病と試みを耐える人々のゆえに
 幸いなるかな、平安の中で耐える人々は
 彼らはいと高きあなたによって冠を戴く
 讃えよ、主よ、我らの姉妹である死のゆえに
 生ける人は誰一人逃れられぬ
 災いなるかな、大罪を犯して死ぬ人々は
 幸いなるかな、あなたの最も清い御心を行なう人々は
 第二の死は彼らに何の害も与えない
 我が主を讃えよ、祝福せよ
 感謝をささげ、主に仕えよ
 大いなる謙遜の心をもって       
(山田 耕太)