学長室だより
なぜヨシヤ王の改革と関係すると言えるのか
相手に語りかける文体様式の単数形と複数形とが混在している申命記法典が、なぜ前7世紀の南ユダの王ヨシヤの改革と関係するのか。この学問的な問題提起は、1805年にドイツ人デ・ヴェッテが公にしたラテン語の論文に遡ります。彼の論点は19世紀の申命記注解書で引用されていますが、ドイツのどの図書館にもないため、第二次世界大戦中の爆撃で消失したと考えられています。そのドイツ語の抄訳は残っていたのです。この伝説的な論文は、申命記で語られている礼拝集中の規定、「あなたは、心して、あなたが好むどのような場所であれ、あなたの全焼の供儀を献げないように注意しなければならない。そうではなく、あなたはヤハウェがあなたの一つの部族の内に選ぶ場所で、あなたはあなたの全焼の供儀を献げ、そこで私があなたに命じるすべてのことを行なわなければならない。」(12章13節・岩波版:鈴木訳)が、歴史書が語る律法の書の発見に合致していると論じたのです(列王記下22章〜23章)。「そのとき大祭司ヒルキヤは書記官シャファンに、『わたしは主の神殿で律法の書を見つけました』と言った。ヒルキヤがその書をシャファンに渡したので、……書記官シャファンは王のもとに来て、王に報告した.……王はその律法の書の言葉を聞くと、衣を裂いた。」(同22章8節〜11節)と歴史書が記しているように、他のすべての聖所を破壊し祭儀をエルサレムだけに集中させる宗教改革が、この発見から始められたのです。デ・ヴェッテの論文は、文献と歴史の間の結節点を発見したことになります。創世記から申命記までのモーセ五書に関する文献学的な研究が、ここから一気に飛躍することになったのです。(鈴木 佳秀)