学長室だより

「「日本のスコットランドに!」パーム宣教師と新潟」(2019.7.26 C.A.H.)

20190726チャペル・アッセンブリ・アワー1

 

敬和学園大学の体育館は、パーム館と呼ばれています。「パーム」とは何でしょうか。それは新潟に最初に来た宣教師の名前なのです。今年は新潟開港150周年の年です。新潟は鎖国政策を止めて最初に港を開いた開港5港(長崎・兵庫(神戸)・神奈川(横浜)・北海道(函館)・新潟)の一つでした。新潟港(現在の新潟西港)は、信濃川河口で浅瀬であったり、北越戊辰戦争の戦いがあったりして1年遅れて開港しました。開港と共に欧米文化やキリスト教が日本に入ってきましたが、明治政府は1873年までキリスト教禁教令を掲げていました。

セオバルド・A・パームは、1848年にスリランカのコロンボで宣教師の子として生まれ、故国スコットランドのエディンバラ大学医学部で学び、1873年に医学部を卒業すると医師を宣教師として送り出すエディンバラ宣教会に所属しました。キリスト教禁教令が解けるとエディンバラ宣教会はすぐに日本に宣教師を派遣しようとしました。パームは日本に向けて出発する直前にメアリーと結婚し、1874年の26歳の時に妻と共に来日しました。最初の1年は築地の外国人居留地で日本語を学びました。パームは医療宣教師のJ.C.ヘボンと相談した上で、開港5港の中でまだ宣教師がおらず、仏教が盛んで「最も困難な土地」である新潟を選びました。

1875年4月15日に三国峠越えで新潟に来ました。しかも新潟に来る3か月前に出産直後の母子を失った失意の中で新潟にやって来ました。パームに同行したのは料理人の水谷惣五郎・哲子夫妻と日本語教師の陶山昶、通訳の雨森信成でした。病院兼自宅は湊町三丁目に建てられました。1年後に病院を拡張して本町に移転しました。パーム病院では、朝9時から集まった患者たちを前に説教がなされ、その後に朝10時から診察と治療が行われました。最初はパームが説教し雨森が通訳しました。パームはまた診察と治療に努めました。雨森はキリスト教に反対する暴漢に襲われて身の危険を感じて横浜に戻りました。パームは横浜のS.R.ブラウン宣教師に懇願して、押川方義が横浜から派遣されてきました。押川はパームの協力者となり、パーム病院は医療と宣教の場ばかりではなく、地元の伝道者を育成する神学塾も兼ねていました。

1877年には、遠方から患者が来るようになり、また中条・村上・新発田・長岡では蘭学医の要請を受けて、パームは出張医療宣教を始めました。当時、外国人は40キロ以上の行き来は自由にできませんでした。新発田までは船でやってきて、蘭学医の田村謙斎宅で医療宣教を行い、そこから人力車で中条・村上へ行きました。日中には診察と治療を行い、夜には伝道会を開催しました。パームは、亀田、水原、葛塚、中条、新発田、沼垂、長岡を定期的に訪問するようになり、キリスト教信者が増えて新潟に教会が形成されました。そのころ、石油採掘事業のために中条に来ていた吉田亀太郎は押川の伝道説教を聴いて、キリスト教に回心して伝道者となり、押川の協力者となりました。パームは函館の宣教師の娘のイザベルと再婚し、アグネスという子も生まれました。

1880年に新潟大火が起こり、古町を中心に新潟の7割が焼け野原となり、パーム病院も焼け落ちました。押川と吉田はこの機に、パームの父が牧会するロッテルダム・スコットランド人教会の支援を受けて「日本のスコットランドに!」という使命で東北宣教に転じ、宮城・福島・山形3県に諸教会を創設し、東北学院と宮城学院という男子校と女子校を創立し、押川は東北学院の初代院長になりました。1881年にパーム病院が西大畑の南浜通二番町に再建され、翌年にはF.J.ショウが看護婦として着任し、ロンドンの聖トーマス病院でナイティンゲールから直接学んだ精神と看護方法を日本で最初に伝えました。

1883年にパームは妻の健康と休養のために一時帰国しました。パーム病院を大和田清晴・虎太郎医師父子とアメリカン・ボードのベリー宣教師に委ねました。しかし、パームは終末論の理解の神学問題で宣教会から再来日が認められず、晩年までイギリスの片田舎の村医として過ごしました。アメリカン・ボードは医療宣教から新潟女学校・北越学館を支援する教育宣教へと方針を変え、教会は現在の東中通教会と新潟教会に分かれました。

パームは1875年から1883年の8年半の間に、延べ4万人の人々に医療を施し、150~160人の重症患者に外科手術を施し、104人の信者に洗礼を授け、ツツガムシ病を発見してイギリスの学会に報告しました。また新潟県下越地方のプロテスタントの諸教会の背骨を形成しました。パームの薫陶を受けた押川と吉田は仙台に東北学院と宮城学院を創立し宮城・山形・福島県のプロテスタント諸教会の礎を築きました。「一粒の麦、死ねば多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)と言われますが、本学体育館はパームの医療宣教の働きを覚えて「パーム館」と名付けられています。(山田 耕太)

パワーポイント資料「「日本のスコットランドに!」パーム宣教師と新潟」(pdf形式、2.51MB)