チャペルのひびき

イエスの十字架の意[2017-04-14]

最初のチャペル・アッセンブリ・アワー(CAH)を、青野太潮先生(西南学院大学名誉教授)を講師にお迎えし、「新約聖書における「十字架」の意味について」と題された新入生歓迎公開学術講演会として守ることのできたことは幸いでした。最新、最高の新約聖書学の成果を踏まえてお話しくださったその内容は、まだ聖書を開いてみたこともない新入生の多くにとっては、難解極まるものであったに違いありません。けれども、その真意は、これから新たな人生を歩みだす若人に前途に向けての愛に満ちたメッセージでもあったことを心に留めて欲しいと思います。中心的テーマを簡単にまとめてしまえば、イエスの十字架とは、とりわけマルコによる福音書においては、一条の光のささない闇の中へと、一筋の希望のかけらも見出すことのできない世界の中に、神の子が打ち棄てられたできごと。しかしそのことを通して、「逆説的に」、神も仏もあるものかとしかいいようのない、取り返しのつかないできごとの中にも神の愛が届けられたことが示されたできごとなのだということでしょう。いつの日か、試練の中で打ちひしがれるようなとき、先生のお話しくださった深い慰めと励ましが皆さんの心に甦ることを願い祈ります。(下田尾 治郎)

講演 新入生歓迎公開学術講演会「新約聖書における「十字架」の意味について」 西南学院大学名誉教授 青野太潮 先生
20170414新入生歓迎公開学術講演会

<参加学生の感想>
感想1) 聖書にはパラドクスがたくさん含まれているのですね。今までの聖書の学びの中で、そのような視点でキリスト教を学んだことはありませんでした。正直、理解の難しかった部分もありましたが、聖書の読み方はひとつだけではなく、人によってさまざまであるということが分かりました。聖書の世界はもっと深いのだということも分かりました。それは自分の人生にも生かせることなのですね。自分なりに吸収して、生かしていきたいと思いました。
感想2) 青野先生の話を聞いてキリスト教を信仰されている理由がなんとなく分かった気がしました。心が弱くなって辛くなったときに、キリスト教があったお陰でたくさんの人が救われてきたんだなと感じた。イエスが十字架にかけられている資料はよく教科書に載っているけど、なぜ十字架にかけられたのかは疑問に思ったことは一度もなかったから、あの十字架に深い意味があったことに本当に驚いた。全ての人類の罪を背負っていたなんて勉強しないと知らないことだ。自分が思っていたよりも、難しくなくて“キリスト教”が少し身近なものになったし、宗教というものをもっと知りたくなった講演だった。

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