チャペルのひびき

神の偏愛

チャペル・アワーでは「神の偏愛」と題してメッセージをとりつぎました。
特定の対象(人物)だけに特別な愛を注ぐ偏愛は、例えば「ヨセフ物語」などにおいて、聖書でも悲劇と混乱をもたらす原因として描かれています。偏愛は、バランスを失し、リスクを孕んだものとしてあってはならない人間の愛のかたちといってもよいでしょう。ところがその一方で、聖書には、神ご自身が、リスクを負いつつ、時に、一見、著しく平等を損ねる仕方で、特定の人間(とりわけ罪人)たちに愛を注がれる方であることが証されています。イエスが語られた「放蕩息子のたとえ」や「99匹と1匹の羊」のたとえは、神のそのような姿を伝えています。「あなただけは特別。あなたを失うことは、わたしには耐えられない。あなたを取り戻すためには、わたしは痛みやリスクを負うことも厭わない」。神は、この愛を示すために、イエスをこの世界に遣わしてくださったのです。キリスト教はしばしば博愛の宗教と言われます。けれども、それは広く薄く引き伸ばされた愛の宗教ではない。神の偏愛からこぼれ落ちる者など一人もいないことを伝える意味においての博愛の宗教です。聖書はそのことを伝える書物です。
引き続きもたれたアッセンブリ・アワーは、初めての試みとして「敬和祭」(28、29日実施)の決起集会として守られました。(下田尾 治郎)

Ⅰ.チャペル・アワー 
説教 「神の偏愛」 宗教部長 下田尾治郎 先生
20171020チャペル・アッセンブリ・アワー1

Ⅱ.アッセンブリ・アワー
講話 第27回敬和祭決起大会 敬和祭実行委員会
20171020チャペル・アッセンブリ・アワー2

20171020チャペル・アッセンブリ・アワー3
 
<参加学生の感想>
感想1) 「偏愛」という言葉は、その人に対してものすごくデキ愛するなど、マイナスのイメージが多いが、下田尾先生が塩谷先生から聞いたという「あなただけはトクベツ」と愛してあげることが必要という言葉を聞いて、深く共感することができた。昔どこかで「人は誰かに必要とされるために生きてる。という言葉を聞いたことがある。人間は誰しも「誰かにトクベツと思われたい」という気持ちを持っていると思うので、この話を聞いて大事な人に「あなたは私にとってこんなに大切な存在なんだよ」と話したくなった。
感想2) イエスさまのいう博愛は世の中にいう博愛とはまた少し違った感じの博愛なのだと分かった。皆を愛しているというよりも一人ひとりのことを特別視し愛しているというものなんだと分かり、少し感動した。誰からも特別視されたことがない人は誰かを特別視し愛することは難しいのではないかというのはその通りだと思った。「博愛」という言葉自体は素晴らしいものだ。
感想3) 偏愛について深いお話を伺った。「あなたは私にとってスペシャルな存在である。」という。偏愛を受けた人だけが、人を愛することができる。偏愛を誰からも受けたことのない人は人を愛することができない。偏愛の代表的な人は父であり母であると思います。偏愛を受けない人は神のもとにひとりもいない。それが博愛であるという。逆説とも取れますが、博愛の重さを感じることができました。神の偏愛からこぼれ落ちる人がひとりもいないという博愛の思想の素晴らしさが胸を打ちました。
感想4) 敬和祭に取り組む学生たちの熱意を感じました。