チャペルのひびき

愛満てる世を望みて

チャペル・アッセンブリ・アワーは、藤野豊先生(国際文化学科教授)が、かつてご自身が修士論文の主題として取り上げられ、また、現在、改めて取り組んでおられるという、有馬頼寧という人物についての興味深いお話をしてくださいました。久留米藩主の血筋にあたる伯爵家に生まれ、恵まれた教育を受けた有馬は、高級役人、政治家となり、農村問題等の社会事業にも深く関わるようになっていきました。はじめは、社会の底辺におられる人々の不満を解消するため、恵まれた階層へと攻撃が向かわぬようにとの理由から、社会事業に関わっていったのですが、やがて、有馬の心の中に、「愛満てる社会」の建設のためとのより深い志とヴィジョンが生まれていったとのこと。そして、その変化の背後に、有馬と道ならぬ関係にあった一人のキリスト者の女性の存在があったことを藤野先生は教えてくださいました。有馬は大政翼賛会の会長を務めるなど、戦後日本の光のもとでは、毀誉褒貶の激しい人物でありました。しかし、一つのレッテルにおいて判断するには、一人の人物の生涯は、あまりにも紆余転変に満ちており、豊かな奥行きのあるものであることを、また、偏見や思い込みから自由にされることを主旨の一つに持つ、リベラルアーツの意義についても、考えさせられたお話でありました。今、世界(日本の社会を含めて)は、人種的にも、経済的にも、思想的にも、千々に分断されつつあります。そのような時だからこそ、人が大切にされるような(たとえ、立場の異なる人であろうとも)、切り裂かれてしまった人々との間に和解が成立するような「愛満てる社会」のヴィジョンを、一人ひとりが胸に抱く必要があります。そのことを教えられた貴重なひと時でした。(下田尾 治郎)

Ⅰ.チャペル・アッセンブリ・アワー 
説教 「愛に満てる世を望みて 有馬頼寧とキリスト教」 教授 藤野豊 先生
20201030チャペル・アッセンブリ・アワー1

<参加学生の感想>
感想1) 藤野先生によるお話で「有馬頼寧」という人物を初めて知りました。彼が同愛会の会長に就任した1921年、大正10年ころに伯爵家の後継が被差別部落の人々の側に立つということは想像もできなかったことでしょう。しかし、彼の松信緑さんとの関係や、その後家計が傾く程の支援を行ったことなどを考えると、育ちのよさから来る人間的に素直な感受性をお持ちの方だったのだろうと思いました。恐らく経済的に苦労したことはなく、「差別」とは無縁の生活をしていた中で実際を知り、ショックを受け、何とかしたいという気持ちに正直に行動される方だったのだと思います。彼の実際の篤志活動についてはあまり分かりませんでしたが、彼の素直さからくる行動によって助けられた人、振り回された人、さまざまあったかと思います。特に彼の家族を考えると気の毒に思う気持ちの方が強いです。すみません。卒論に墨をかけて拒否、の話は衝撃でしたが、逆に機会があれば藤野先生の論文を拝読したいと思います。ありがとうございました。
感想2) 今回のチャペル・アッセンブリー・アワーを通して、「愛」というもののすばらしさを改めて感じました。今回の藤野先生のお話に登場した有馬さんは、当初は自分たちの地位を守りたいがために部落解放運動などの活動に参加していたものの、聖書に出合ったことがキッカケで自分たちの地位を守るためではなく、人びとに対する「愛」によってさまざまな活動を行っていたというのは、とてもすばらしいことだと感じました。マタイの福音書には「敵を愛し」という言葉がありますが、これは言うのは簡単であっても実際に行動に移すとなると、たやすいことではありません。しかし、有馬さんはこれを彼が聖書に出合ってから亡くなるまでの間、ずっと続けていました。私は今まで、嫌いな人や苦手な人とはなるべく関わらないような生活を送ってきました。しかし、これからは有馬さんのような敵であっても愛せるような「愛」を持った人間になりたいと思いました。
感想3) 今日の藤野先生のお話を聞いて、敵に対しても愛を与えるということがとても印象的だった。自分を迫害する者を愛し、愛を満たすことで平等な世の中になるというお話を聞いた。敵を愛するということはとても難しいことだと思うが、愛することによって、相手を変えることができ、よりよい関係を築くことができるかもしれないと考えた。私たちが大学生活を送る中で、誰かと対立してしまうこともあると思う。その時は、マタイ福音書にある「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」という言葉を思い出し、誰に対しても平等に愛を注ぐことの大切さを忘れずに対応しようと思った。
感染病だと診断されていたが、医師の間違いだったということが、感染病に携わるきっかけになったというお話を聞いて、間違いがあったからこそ自分の人生を変えることができるということもあるということが分かり、人生で起きる物事には必ず何か意味があると思った。なので、相手の間違いや失敗に対して、許すという心を持ち、その失敗を何かに生かすことはできないかということを考えて、失敗を無駄にしないことが大切だと思った。