学長室だより

新井明学長インタビュー 「木を育てるように」

敬和学園大学の二代目学長に就任された新井明先生に話をうかがいました。 米国留学時代に知り合った前学長の北垣宗治先生との交友や、敬和学園大学とのさまざまな“縁”のほか、 今後、敬和学園大学が目指す教育のあり方などを率直に語ってくださいました。
 

 

新井学長の出発点

―― まず、学長のこれまでの経歴をお聞かせください。
大学に入る直前の5年間ほど、疎開のために、山形県の鶴岡におりました。鶴岡ですから、上京するときには必ず新発田を経由していました。昨年12月の初めに、学長に就任するのに先立って、誰にも伝えずに、お忍びで家内を連れて新発田に参ったのですが、妻もこの土地を大いに気に入ったようでした。
鶴岡で通っていたのは、今でいうと鶴岡南高校だと思います。そこを卒業する前に神奈川県の湘南高校に転校してしまいましたが、鶴岡にいたということが私の人生に大きな影響を与えてくれました。例えば、実家はクリスチャンではありませんでしたが、キリスト教に接することができたのも、鶴岡時代の英語の先生を通じてでした。鶴岡がなかったならばキリスト教に接するということは決してなかったわけですし、「鶴岡が自分の出発点だな」とあとから考えるとつくづく思います。
当時、私は小学校の先生になろうと思っていたのですが、父は反対で、高校の担任の先生と相談したらしく、担任の先生が「先生になるなら、東京教育大学に入れ」と強くおっしゃったので、結局、東京教育大学の文学部に入りました。
入学したのは、昭和25年で、そのころは、入学時には専門学科を決めずに二年次で学科を決めることになっていたのです。私は英文科を選びました。横文字というのは若いときでないとダメだと思ったからです。最初、大学院に行く気はなかったのですけれども、ある友人が私に強く「大学院に行け」って推奨するものですから、指導教授とも相談して進学しました。
大学院に入ってからすぐ、ある恩師が内村鑑三奨学金への応募を強く勧めてくださいました。そして、内村鑑三や新島襄の母校でありますアーモスト大学で2年間勉強しました。
 

北垣宗治前学長との出会い

―― アーモスト大学といえば、北垣前学長も留学されていましたが。
そうです。アーモスト時代には、北垣さんもちょうど留学されていた時期でしたので、一学期ほど、ご一緒しました。北垣さんとの長い交友はこのときに生まれました。
アーモスト大学で学んだ後に、さらにアーモストから奨学金を受けることができ、1年間、ミシガン大学の修士コースで勉強しました。ミシガン大学への進学について、当時のアーモスト大学のコール総長が私に「新井くん、私は日本へ行って終戦直後の荒廃した姿を見ているが、あんなところで勉強するのは大変だ。だが、いずれあなたは日本に帰って働かなければならない。だから、アメリカには長居しない方がいい」とおっしゃいました。とても思慮深い指導だったと今でも感謝しております。
日本へ帰ってきてから、まず、名古屋大学で7年間、その後、母校の東京教育大学で9年間、教鞭をとりました。東京教育大学が筑波大学になる際、北垣さんは、当時教えていらした同志社大学に私を強く誘ってくださいましたが、結局、大妻女子大学で教えることになりました。そこで4年、それから日本女子大学に呼ばれまして、日本女子大学に19年おりました。大妻女子大学に移った昭和52年以降はずっと女子大ばかりでしたね。
 

そして敬和学園大学へ

日本女子大では学生への教育とともに、いろんな仕事を担当しました。学生生活部長や文学部長をやりましたし、保健関係施設の担当理事、総合研究所長なども務めました。やっと2000年3月に退任し、それまでなかなかできなかった仕事に取りかかっているところでした。
その後、いろいろな大学から学長の要請があったのですが、もうセイセイして(笑)、全部断っていました。ただ、この敬和学園大学からの話があったときには、断れませんでしたね。

―― それは、どうしてでしょうか。
まず、北垣さんとのご縁があったためです。あの勉強好きな人が大変な苦労をして、ここまで敬和学園大学の教育を発展させてきたことに心を打たれました。「北垣さんは、ろくろく本も読めなかっただろうな」と想像すると、同情心すら、わいてきました。
そして、それとは別に敬和学園大学と不思議な“縁”がいくつもあったという理由もあります。敬和学園大学開学準備をする際に、北垣前学長の前に敬和学園大学の学長予定者だった野本森萬さん(その以前は面識がなかったのです)が、私のところに何回か熱心にお越しくださいまして、教員の人事関係の相談などを受けました。
その折に、私は敬和学園高校というのが同志社系の高校だと思っていたので、北垣さんに連絡を取って、「北垣さん、新島襄の影響のある土地だから、中心人物を1人、2人、推薦してください」と強く言いました。それで、北垣さんも数人、選んでくださったようです。私も同時に適任と思われる人物を推薦しました。
その後、文部省から敬和学園大学の設置許可が得られないかもしれないということで、開学が先延ばしになったのですが、1年経ったときに、今度は、北垣さんから電話があって、「僕が学長予定者にさせられちゃったよ」というから、「だからあなた、あのとき一生懸命人を探さなかったからだ」って二人で大笑いしたのですけどね(笑)。

 

摂理の声

北垣さんとは親しいですから、なにかお書きになると、私のところに必ず送ってきます。そのため、敬和学園大学がどういうふうに進んできたのか、ということはずっと知っておりました。教育理念もわかっておりましたし、その理念には大賛成でした。「日本にこういう学校がなくちゃいけない」、そう思っている学校でした。
私が勤めていた日本女子大学は成瀬仁蔵が打ち立てましたが、成瀬はその前に、新潟で伝道をし、今の新潟教会を建てました。そして、新潟女学校と男子校の北越学館を建てたのです。私が敬和とご縁だなと思いますのはそういう点です。成瀬が建て、数年にしてなくなっていった新潟女学校と、北越学館というものに対する一種の思い入れがあった方々が、敬和学園高校設立に動いた方々の中にいらしたと聞いています。
また、私は直接には内村鑑三の影響を受けてキリスト教徒になっていったわけですけれども、内村鑑三もアメリカから帰ってきたときに、北越学館に呼ばれて教頭になっています。私の精神的な源流である内村の関わった学校でもあります。
敬和の学長に就任することは、キリスト教の表現で言えば、摂理ですね。「摂理の声を聞いた」といったらば、ちょっとキザに響くかもしれませんが、本当のところはそうなんですね。「行け!」と言われたという感じがしました。
 

教育と対話

―― 先生の教育観を教えてください。
頭の教育、知育。それから徳育、すなわち、心の教育。さらに、もう一つは体育。この三つを教育の根底に置き、個人の尊厳というものを培っていくのが重要です。
知育の部分は、リベラルアーツの精神である「思想の自由」というものにつながります。人間の尊厳というものをお題目ではなくて、本当に重んずる教育をすることが重要です。リベラルということは奴隷状態からの自由ということで、「自由人」ということが特殊な意味を持っていたと思います。
知育と徳育と体育を合わせて、それで人間に授かった人間の個人の尊厳というものを育成していく。若者が育っていくときに、横にいて育っていくのを助けてあげる。育つのを助けるというので、かつては助育という言葉もあったのです。それは戦後アメリカの教育使節団が日本へ来たときに、残していった言葉ですが、助育という言葉はいい言葉だと思いますね。人の持っている価値の育っていくのを、脇で見て助けてあげるということが教育者の基本的態度じゃないでしょうか。ですからある個人が悩みを持っていれば、つまらない悩みも多いんだけれども、やはり、聞いてあげることが必要ですね。

―― 「対話が重要」ということでしょうか。
そうです。私が日本女子大学の学生生活部長のときの経験ですが、様々な悩みを抱えている学生に接しました。最大の悩みは、やっぱり家庭の問題ですね。自殺を考えるまでいかないにしても、過食症と拒食症になってしまっていた学生がおりました。治すのに一番いいのは、やっぱりその人の立場に立って対話をしてあげることですね。これは絶対です。ですからどんな忙しいときでも、真剣になってきたときには、やっぱり20分でも30分でもいいから話を聞いてあげるということが大事ですね。実にそう思いました。敬和学園の先生方というのは親切な方が多いと思うので、そんなことを私が言う必要はないと思いますけれど、よく若い人たちの話を聞いてあげるという姿勢、語るじゃなくて、まず聞くという姿勢が大切だと思います。大げさな言い方をすると、対話することで、随分、私自身、何人もの人を救うことができました。

 

木を育てるように

―― ところで、森林の保護と育成に、とても関心がおありになるとのことですが。
木を育てるというのと、人間を育てるということと共通しているところがあるのですよ。木を育てる気持ちがない人は、人間を育てられない。木というものは、手入れがとても大変で、放っておきますと、木がみんな細くなったまま倒れていってしまいます。三重県に愛農高校という学校があり、私はそこの理事をしている関係で、木にはとっても興味があります。敬和学園大学のキャンパスの木の育ち方はすごくいいですね。木は育てないとだめです。だから卒業生に木を一学年1本ずつ植えさせるといいかもしれません。

―― ありがとうございました。

 

聞き手:敬和学園大学 広報委員会(2003年2月)