学長室だより
ダビデの物語・ダビデの台頭史その2
神が悔いたということは、神の選びが失敗したことを意味すると言いましたが、全能なる神が失敗することは考えられません。人間の目から見れば失敗とうつる出来事ですら、その結果を用い給うのが神の摂理なのです。神が悔いたのは、サウルが神の御旨を勝手にねじ曲げてしまったからです。神の摂理に自分の思いを組み入れ、自分独自の考え方であるかのように変えてしまったことを意味します。これが、旧約聖書が語る反逆なのです。
しるしが実現した時に「しようと思うことは何でもしなさい」(サムエル記上10章7節)とサムエルから言われ、「神があなたと共におられるのです」と告げられた言葉を、サウルはどのように心にとめたのでしょうか。神の選びを勘違いするところから、自分が思っていることを何でも行なう行動に出てしまったのです。自分の気持ちに忠実になってしまった、つまり神の代理人〔王〕として振る舞っていても、自分が神になってしまっていたのです。
神の摂理は挫折したように見えても、「主はサムエルに言われた。『いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。……角に油を満たして出かけなさい』」(上16章1節)と、新たな創造的展開へ向かうのです。