学長室だより

イエスの誘惑( 2015.10.30 C.A.H.)

「人はパンのみで生きるのではない。」(ルカ4:4)
「あなたの主なる神を試みてはならない。」(ルカ4:12)
「あなたの主なる神に跪きなさい。そして神にのみ仕えなさい。」(ルカ4:8)

20151030チャペル・アッセンブリ・アワー1

 

「主の祈り」の最後に「私たちを試み(誘惑)に遭わせないでください」という祈りがあります。「試み」とか「誘惑」と訳されているギリシア語は同じ「ペイラスモス」という言葉です。翻訳者は、それが悪魔など悪いものに由来する時には「誘惑・惑わし」と訳し、神など良いものに由来する時は「試練・試み」と訳し分けています。「試み」「誘惑」とはその人がどんな人かを試す「チェック・テスト」です。私たちの人生には誘惑や試練が多くあります。イエスの誘惑物語は、イエスがどのようにして誘惑を乗り越えたかという模範を示す物語です。
イエスは宣教活動の始めに、神の子であるかが「悪魔」によって試されます。「悪魔」すなわち「サタン」とは、「神に敵対する者」を意味します。イエスはモーセやエリヤと同じように40日40夜の断食(食を絶って祈りや瞑想に集中すること〉をします。その直後に、人間的に見て最も弱くなった無防備の時に、誘惑に遭いました。
イエスの誘惑物語は、序論(ルカ4:1-2)と結論(ルカ4:13)の間に挟まれた「神に敵対する者」の問い(ルカ4:3、9-11、6-7)とイエスの答え(ルカ4:4、12、8)で構成される三組の「クレイア」で書かれています。「クレイア」とは修辞学の用語で、著名な人物がある状況でその人らしい言葉を発する短いエピソードを指します。こうして、対話形式の問答の最後にイエスがどんな人かを示す、聴衆にアッパーカットのパンチを食わすパンチ・ワードが語られます。
誘惑物語の三つの問答は、マタイ福音書の順序がオリジナルであり、ルカ福音書とその続きの使徒言行録では神殿が重要な場所を占めるので、ルカは第二と第三の問答を入れ替えて、神殿を最後の場面にもってきています。(なお、以下ではマタイ福音書とルカ福音書が共通に用いたQ文書の私訳を用います。章節はルカ福音書によります。)

 4:3a すると、悪魔は彼に言った。
    b もしお前が神の子ならば、これらの石がパンになるように言え。
  4a すると、イエスは〔彼に〕答えた。
    b 次のように書いてある。「人はパンのみで生きるのではない。」(申命記8:3b)

第一の誘惑は、人は何によって生きるのかという問題、すなわち経済の問題です。イエスが空腹になったところで「神に敵対する者」が「神の子」としてのしるしを問います。イエスに対して全知全能の神の子であるなら「石がパンになるように言え」と奇跡を起こすことを要求します。
イエスは「人はパンのみで生きるのではない」と申命記8章3節後半の言葉を用いて答えます。マタイはさらに明確にするために「神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる」を追加して引用します。これらの言葉は「荒野の40年」の旅をしたイスラエルの民が、モーセの与える神の言葉によって生かされた経験から学んだ言葉です。人は何によって生きるのか。生きるためには、もちろんパンも必要です。しかし人間は、「パンのみで生きるのではない。」目に見える物質のみを求めて生きるのではなく、目にみえない精神的な生きる方針に支えられて生きるのです。経済を優先し、経済のためだけに生きてはいないだろうか。経済は手段であって目的ではないのです。経済至上主義への誘惑を断ち切ることが第一です。

 4: 9a 〔悪魔は〕彼をエルサレムに連れて行き、神殿の頂きの上に立たせて彼に言った。
   b もしお前が神の子であるならば、自分の身を下に投げてみよ。
   10  次のように書いてあるからだ。「お前のために彼の天使らに命じであろう。
   11  すると彼らは両手でお前を引き上げ、お前の足は石を打つことは決してない。」(詩編91:11a, 12)
   12a イエスは彼に〔答えて〕言った。
    b 次のように書いてある。「あなたの主なる神を試みてはならない。」(申命記6:16)

第二の誘惑は神を試そうとする誘惑、すなわち宗教の問題です。「神と敵対する者」は、荒野とは対極的な場所で、神の住まうところと考えられていた最も聖なる所、エルサレムの神殿にイエスを連れ出します。そして「もしお前が神の子であるならば」「飛び降りてみよ」と詩編91編11節前半, 12節を引用して、神の約束の言葉を信じて「天使が助けに来るかどうか見てみよ」と勧めます(10-11)。神を信じる人が神を試そうとする誘惑です。
イエスは「あなたの主なる神を試みてはならない」と申命記6章16節の言葉を引用して答えます。それはモーセに反逆したイスラエルの民がマサやメリバ(出エジプト記17:1-7、民数記20:2-13)で神を試みた苦い経験から学んだ言葉です。神を試して、人間が神よりも上の立場に立とうとする誘惑、それは人間の驕りと傲慢を端的に示しています。神を信じていながら、自分が神に成り替わろうとしてはいないだろうか。神を相対化し、自己を絶対化する誘惑を断ち切ることが第二です。

 4:5  悪魔は彼を極めて高い山に連れて行き、彼にこの世の国々とその栄えを見せた。
  6a そして、彼に言った。
  7  もしお前が私に跪くならば、
  6b これらすべてをお前に与えよう。
  8a イエスは彼に〔答えて〕言った。
   b 次のように書いてある。「あなたの主なる神に跪きなさい。そして神にのみ仕えなさい。」(申命記6:13)

第三の誘惑は人や国を支配しようとする欲望、政治の問題です。「神に敵対する者」は、天に近い高い山に連れて行き、「神の国」と対照的な「地上の国々」の繁栄を見せて、「私に跪け」そうすれば物質的な繁栄のすべてを与えようと約束します。
それに対してイエスは「あなたの主なる神に跪きなさい。そして、彼にのみ仕えなさい」と申命記6章13節を引用して答えます。このようにイエスが語るのは、地上の繁栄の象徴であるこの世の「富」と「神」は相容れないからです。人を支配しようとして生きようとしてはいないだろうか。他人を支配しようとする所有の欲望を断ち切ることが第三です。
「イエスの誘惑」では、「神に敵対する者」の問いかけの中で、人間の本質が問われています。その時にイエスはどのようにして誘惑を断ち切っていったのでしょうか。それはイエス時代より1200年前にモーセに導かれた「荒れ野の40年」の苦い失敗の経験から学んだ知恵の言葉によってでした。私たちも人生の分かれ道で「あなたはどう生きるのか」と問われます。自分の失敗の経験から学び、人生の羅針盤となる生き方を身につけましょう。生きる力となる人類の知恵の言葉を、蜂が蜜を集めるように心の中に蓄えていきましょう。ゲーテは「3000年の歴史から学ばない人は、暗闇の中に生きているのと同じだ」と言いました。人類の歩んできた歴史から学んでいきましょう。こうして賢く生きるすべを身につけていきましょう。

(祈り)
命の源である神様、今日も生きよと命を与えてくださいますことを覚えて感謝します。しかし、私たちの生きる社会にはさまざまな誘惑や試練があります。誘惑や試練から私たちをお守りください。どのように生きるべきか指針となる言葉をお与えください。試練や誘惑に直面したときにそれを越えていく知恵の言葉を心の中に蓄えさせてください。20世紀を代表する神学者カール・バルトは「右手に聖書、左手に新聞」と言いました。古典や歴史から学んだ言葉によって、現代社会を洞察する目を養っていくことができますようにお導きください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。(山田 耕太)