学長室だより
「行き先も知らない旅人としての人生(ヘブライ11:8-12)」 (2017. 7. 21 C.A.H.)
「旅人としての人生」というタイトルは、多くの日本人には「旅に病んで夢は枯野を駆け巡る」という句を残した芭蕉を思い出させます。芭蕉は冥途の土産として中尊寺の金色堂などの名所を見ることに誘われて、江戸・深川の自宅から東北地方への『奥の細道』の旅を思い立ちます。そして、故郷の伊賀上野に戻る途中で、新発田辺りを通ります。山北町の山中には現在も芭蕉が歩いた江戸時代の出羽街道の石畳の道が残されています。学生時代に山北町の北中辺りの出羽街道を歩いてみてはいかがでしょうか(5月5日「学長室だより」写真、参照) 。
「行き先も知らない旅人」とは、アブラハムの人生を象徴する言葉です(ヘブライ11:8)。また、私たちの人生を象徴する言葉です。私たちは「裸で生まれて来て、裸で大地に帰ります」(ヨブ記1:20)。人生は出会いで決まります。人との出会いの中で次第にいかに生きるべきかを自覚していき、人生の旅の目的である行き先を見出していきます。ヘブライ人への手紙11:8-12は、創世記12章から25章のアブラハムの生涯を要約しています。
アブラハムはシュメール文明の中心地のウルから冒険心とチャレンジ精神に溢れて「行き先を知らずに」旅に出ます。妻のサラと甥のロトと多くの家畜を連れて砂漠に囲まれたステップという草地の「肥沃な三日月地帯」をたどって全く未知の土地に向かって旅をしました。
やがて、パレスティナに入ると神が現れて、アブラハムに二つの約束をします。第一の約束は、子孫が繁栄する約束です。第二の約束は、パレスティナの土地をアブラハムの子孫に与える約束です。アブラハムはこの神の二つの約束を信じて、誰も知る人がいない土地で神を頼りにして定住生活を始めます(創世記12章)。
神の第一の約束の子孫の繁栄の約束がなかなか成就しないので、悩んだ末に人間的な思いから自分の家の後継者として、一番信用できるダマスコのエリエゼルを自分の子としようとします。しかし、神はそれを受け入れず、養子ではなく、アブラハムの実の子が跡を継ぐことを宣言します(創世記15章)。
アブラハムは肥沃な土地を甥のロトに与え、自分は家畜を飼うのは貧弱な土地を選びます。しかし、豊かな土地を得たロトは、豊かな土地を狙った外国の王に攻められますが、アブラハムはロトを助けて救い出します(創世記13-14章)。ロトとその家族はソドムとゴモラという町に住む不道徳な人々と共に滅ぼされそうになりますが、アブラハムの執り成しの祈りによって救われます(創世記18章後半、19章)。
アブラハムは妻サラが老人になっており子が生まれるような状態ではないので悩んだ挙句に、飢饉でエジプトに逃れた時に連れてきた女奴隷のハガルとの間に子イシュマエルをもうけて跡取りにしようとします。しかし、イシュマエルが生まれる妻サラと女奴隷ハガルの立場が逆転してハガルの立場が強くなり、二人の関係が極めて悪化し、アブラハムの悩みはさらに深くなります。(創世記16章)
その悩みの中で三人の旅人の客人が訪れて、老人の妻サラが来年男の子を生むことを予告して立ち去ります(創世記18章前半)。その予告の通りサラは約束の子イサクを産みますが、少年イシュマエルが幼子イサクをいじめる姿を見て、アブラハムは遂に問題解決の最後の手段としてハガルとイシュマエルに家から出てもらうことにします(創世記21章)。
しかし、神はアブラハムに試練を与えます。約束の子イサクを犠牲の動物と同じように神に捧げよとアブラハムに告げます。アブラハムは神の約束とは矛盾する神の言葉にも拘わらず、神の約束を信じ「神の山に備えあり」と信じて、イサクを連れて指定されたモリア山に登っていきます。そして、モリア山頂でイサクを動物のように捧げようとした瞬間に天から声がします。「アブラハム、アブラハム、あなたの信仰はわかった。あなたは独り子を惜しもうとはしなかったからである。」するとそこにはイサクに代わって神に捧げるべき羊が目の前にいました、アブラハムの信仰はユダヤ教・キリスト教・イスラーム教の一致点です。
アブラハムは子孫が繁栄する約束を実現しようとして悩みと迷いの中で、紆余曲折の末に最後に神を信頼して神の約束を信じる信仰に立つことができ、イスラエル人の祖父となりました。アブラハムがパレスティナで手にした土地は妻サラを葬った墓地だけでしたが、その約束は400年後にモーセの時代に実現します。私たちも冒険心とチャレンジ精神をもって「行き先を知らない旅」を歩んで行きましょう。祈りましょう。(山田 耕太)