学長室だより
「われ山に向かいて目を上ぐ」(2020.1.24 C.A.H.)
皆さん、おはようございます。今日は今年度最後のチャペル・アワーです。1年間の大学生活を通して、さまざまなことを経験してきたと思います。10代後半から20代にかけては、悩みと不安にさいなまされ、ある意味では出口が見えない真っ暗なトンネルの中にいるかのように感じることがあったのではないでしょうか。私も若い日にはそう感じていました。
八方ふさがりになって、どこからも助けが来ない、誰も手を差し伸べてくれないという心境は、詩篇121編の詩人も経験したことではないかと思います。そこで詩人は「山に向かって目を上げて、私の助けはどこから来るのでしょうか」と祈るのです。
「われ山に向かいて目を上ぐ、わが助けはいずこより来たるか。」
昨年10月11日の「学長室だより」「祈りについて」で、大江健三郎氏が祈りは心の集中だというのに対して私は沈黙の中での神との対話だと述べました。もう一つの解釈を紹介します(教皇フランシスコ『すべてのいのちを守るため』カトリック中央協議会、2020年)。
昨年11月23日から26日まで日本に滞在した教皇フランシスコは、25日の「青年との集い」で3人の若者の声を聴きました。1人は現代の社会の中でどのように信仰を持って生きていくのかと問い、もう1人は小学校教員としていじめやハラスメントが多い中でどのように対応していけばよいのかと尋ね、3人目のフィリピン人の青年は日本で外国人として受けてきた差別を訴えました。その後で、教皇フランシスコは次のように答えました。
「かつて、ある思慮深い霊的指導者がいいました。祈りとは基本的に、ただそこに身を置いているということだと。心を落ち着け、神が入って来るための時間を作り、神に見つめてもらいなさい。神はきっと、あなたを平和で満たしてくださるでしょう。」
祈りとは神に願いを訴えることでもなく、神の声を聴こうとすることでもなく、一言で言えば、ただ「神に見つめてもらうこと」だというのです。詩編121編の詩人も「山に向かって目を上げて」「神に見つめてもらう」経験をしたのでしょう。すると一転して「私の助けは、天地創造の神から来る」と確信して言います。
「わが助けは天地をつくりたまえる主より来たる。」
その後に、神がどんな時にでも共にいてくださることを確信した詩人の言葉が続きます。敬和学園大学の校歌は、「神を敬い、人に仕える」という冒頭の言葉から始まり、「心高く目を上げて、はるかな山に祈ろう」で結びます。それは詩編121編の祈りの言葉「われ山に向かいて目を上ぐ」を歌っているのです。行き詰ったら、空を仰いで、あるがままの自分を神の前にさらけ出して、神に見つめてもらいましょう。(山田 耕太)