キャンパス日誌
敬和学園大学開学記念講演「日本文学はなぜ面白いか 」(コロンビア大学教授 ドナルド・キーン先生)
敬和学園大学の開学を記念し、コロンビア大学教授のドナルド・キーン先生をお迎えして開催しました記念講演「日本文学はなぜ面白いか」の講演録をお届けします。
本講演の掲載をご許可くださいましたキーン誠己さま、テープ起こしの労をとってくださいました北嶋藤郷本学名誉教授、中原洋二さまに心より御礼申し上げます。

敬和学園大学 記念講演会「日本文学はなぜ面白いか」ドナルド・キーン先生
「敬和学園大学 開学記念講演」(1991年10月24日):(於)新発田市民文化会館
テープ起こし文 作成者:北嶋藤鄕(敬和学園大学名誉教授)/中原洋二(耳目舎)
北垣宗治 学長:
皆さん、こんばんは。今日はよくおいでくださいました。
敬和学園大学の記念講演会ということで、何を記念するのかということでございますが、無事に本年4月に、大学としてこの地にスタートさせていただいたことを記念するという趣旨でございます。
この中には、昨年の今ごろでございましたが、この席で俳優の二谷英明君と私の「対話」をやらせていただきまして、そういったことが去年ございましたが、ちょうど1年たった今度は、コロンビア大学教授のドナルド・キーン先生を迎えて記念講演会をしていただくことになりました。

キーン先生については、もう皆さんよくご承知のことと思います。何らかのご関心があればこそ、これだけの方がここに集まっていらっしゃるのだと思います。
私は、キーン先生に1953年に初めて京都でお目にかかりました。53年といえば、私はまだ大学院の学生で、同志社にいたのでありますけれども、私の学生時代にアメリカ人の先生でオーテス・ケーリという人が、同志社大学の中のアーモスト館という国際学生寮の館長をしておられまして、そのケーリ先生の昔からの友人ということで、キーン先生がよく訪ねてこられたことを思い出します。そういった機会にお目にかかって、いろいろお話を聞く機会がございました。そういうわけで、53年以来の知り合いでありますので、私は自分の女房を知る以前からキーン先生のほうを知っているということでございます。
そして、私は同志社に教師としておりました時にも、しばしば同志社を訪ねられまして、そしてケーリ先生のところで、いろいろな話し合いに参加させていただいたことを思い出します。昨年参りました二谷君も、その同志社のアーモスト館の寮生でございまして、同じ釜の飯を食べた間柄でありますが、やはり今日講演をしていただきますキーン先生も、アーモスト館を通して、オーテス・ケーリ先生を通して、知り合うことのできた方であります。
キーン先生は、実は戦争中、アメリカ海軍の将校――日本の場合は海軍の士官と言うほうがよく通ずるのですけれども、海軍士官でありまして、しかもキーン先生の場合は、戦争中から日本語を勉強されて非常に堪能でありましたから、そういった日本語関係のお仕事をされたわけであります。それが機縁になって日本語から離れられなくなり、日本文学をなさるようになり、5年間、ケンブリッジ大学で教えられて、その後、今度は母校のコロンビア大学から招かれて、日本文学の担当ということで今日に至っておられます。
何しろキーン先生は、コロンビア大学で日本文学ということになりますと、『万葉集』から安部公房まで一人で教えられる方であります。ですから、私は自分自身が外国文学、特に英文学をやっていて、「それではお前は、ベオウルフからバージニア・ウルフまで一人で教えられるか」といったらとても教えられませんけれども、キーン先生はその点、『万葉』から始まり、『源氏物語』、『枕草子』を含め、そして『徒然草』の立派な翻訳を出していらっしゃいますし、それから芭蕉、あるいは謡曲といった文学から、江戸文学を経て明治期の文学、そして昭和を経て今日までの日本文学を、本当に綿密に、緻密に読んでいらっしゃいます。そして、常に日本人である私たちとは違った観点から、日本文学の一つ一つの作品を評価して、そして私たちはいろいろと啓発されるわけであります。
そういったようなことで、今日はそのキーン先生に日本語でご講演をいただくわけでありますけれども、実は6月でしたか、東京に参りまして講演を引き受けていただきました時に、どういうテーマにしましょうかということで、いろいろ考えていただきました結果、二人が一致したことですけれども、「日本文学はなぜ面白いか」というテーマでいきましょうということになりました。
どういうお話が出るか分かりませんけれども、私はキーン先生と話していつも啓発されます。そして、今日はお集まりの皆さまがきっと啓発されるであろうと確信している次第です。
敬和学園大学はこういう関係でキーン先生を迎えることができ、そして今日はこうして新発田市、聖籠町、そして新潟その他からお集まりの方々の前でお話しいただけるようになったということは、同時にまた敬和学園大学それ自体の成長の一コマであろうかというふうに思っております。どうぞご静聴いただきたいと思います。
それでは、キーン先生、お願いいたします。(拍手)
ドナルド・キーン 先生:
今日、生まれて初めて新発田に参りましたが、着いてから北垣先生に、新発田とは全く無関係ではないということを申しました。というのは、私は戦時中、日本語を覚えてから、アメリカの海軍の日本語学校で覚えてから、ハワイに派遣されました。ハワイの事務所で、いろいろ日本軍が残したような書類の翻訳に関わっていましたが、一番最初に訳した書類は、新発田の人が書いたものでした。内容は全く覚えてないんです。覚えていることは一つだけです。私は、Shibataという発音を知りませんでしたから、Shinhatsudenというふうに書きました。それ以来、私の誤りに気がつきました。

今日の私の演題は、「日本文学はなぜ面白いか」ということですが、まず、日本人として日本文学が面白いことは全く当たり前です。どの国の国民でも、自分の国の文学に特別な関心があることは当然です。
仮にどこかの国の文学がそう大したものでなくても、やはり自分の国の文学だから無視するわけにいかないです。どうしても少しぐらい読まなければならないんです。まず、どうして文学がそんなに大切であるかというと、別の意味で、文学はその国の国語の一番いい、一番きれいな結晶だと、私は思っています。
要するに、どんな人でも自分の国の言葉に特別な愛着があります。私自身も、それを知らなかったですけれども、ある時気がつきました。というのは、私が初めて日本に留学したのは昭和28年でしたが、2年間ぐらい京都にいましたが、なるべく英語を使わないようにしていました。なるべく毎日日本語だけ使うことにしていましたが、ある時、日本人の友達に誘われて映画を見に行きました。その映画はシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』という戯曲に基づいた映画でしたが、シェイクスピアの作品の中で私の一番嫌いなものなんですけれども、しかしその晩、『ジュリアス・シーザー』を見て、そして英語を聞いて、私は全く酔ったような気持ちでした。英語のすばらしさに驚いたという感じでした。もし私の好きな曲だったら、多分、映画館から出られなくなったでしょう。ともかく、どの国民でも自分の国の言葉を大切に思って、またその国の言葉でできたような文学作品も、特別な関心を持って読むことは全く当たり前だと思います。
現在、世界のいろいろな国で、言葉の問題で争っています。例えば、大変な戦争にならなくても、ベルギーではフランス語とオランダ語、あるいはカナダでは英語とフランス語、あるいは現在、ユーゴスラビアは大変な戦争が行われていますけれども、一番の原因の一つは国語の問題です。
そういうような背景がありますから、日本人として日本文学を面白いと思ったら、私は全然驚きません。こういうようなことを友達から聞いたんですけれども、彼は西インド諸島のハイチという国の大学で教えるようになりました。ある日、どちらかというと軽い気持ちで、その島の一番知られている小説家は、トルストイに劣っているというふうに言いました。別に深い意味はありませんでしたけれども、誰かが彼の発言を警察に伝えて、彼は24時間以内に国を去らなければならなかったです。それほど自分の国の文学を大切に思っていたらしいです。
しかし、日本文学の場合は、そういうような狂信的なことを考えなくてもよろしいです。日本文学の価値について、何も疑問がないと私は思っています。その意味では、あるいは日本文学を一番公平に判断しよう、その価値をつけると思ったら、翻訳で読んだほうがいいかもしれません。というのは、言葉自体は日本人ならどんな日本語でも、ある意味では自分にとって身近に感じることはもちろんありますけども、しかし外国人が日本文学を読んで、どうしても日本文学の作品の内容を自分の国の言葉で人に伝えたいと思ったら、まずその作品に価値があります。また、もし外国人、日本語を一つも知らないような外国人が、その翻訳を読んで非常に感心したとすれば、間違いなくその作品に相当な文学的な価値があります。
恐縮ですが、私は私自身の話から始めようと思っています。
私は大学1年生の頃に、全く偶然のことで、中国人の親しい友達ができました。中国人の友達ができましたために、彼の国を攻撃したりして、占領していたような日本という国は非常に嫌いだったです。私は全く反日的な人物になったんです。そうして戦争の間、日支事変と呼ばれていましたが、私は日本軍のやっていることを全く是認できなかったです。
ところが、大学3年生の頃だったですが、私はニューヨークの大きな本屋で、いろいろな特価品を見かけたんです。中に、『源氏物語』(紫式部)の英訳が入っていました。私は本を見て、あんな安い値段で、あれほどたくさんのページの本を買うのは非常に経済的だと思って、別に深い意味でなく、ただ安いから『源氏物語』の英訳を買いました。
そして私は、半信半疑という気持ちで読み出しました。読むと、私は実に、見とれたような気持ちでした。私はほかの読み物を忘れるくらいだったです。しかし、あの時に特別な理由がありました。
今の話は1940年のことです。日本で言うと昭和15年の年でした。あの年は、欧米人にとっては非常に辛くて暗い年でした。なぜなら、あの年の6月にドイツ軍がまずオランダ、ベルギー、次はフランスを攻撃して占領しました。そして、ヒトラーの軍に対して、ほかの国は何もできないようでした。全ての人は、その無力感といいましょうか、絶望を感じていたと私は思っていますけども、私の場合はもう一つの要素があったんです。というのは、私自身は非常に熱心な反戦主義者でした。私は人間の全ての行為の中でも一番醜いもの、一番恥じるべき行為は、戦争をすることだと思っていたのです。私、今でもそう思っていますけれども、あの頃は大変不愉快な、矛盾にぶつかったのです。つまり、戦争が悪ければ、武器を使って人を殺すことは大変な罪だと思っていたら、どういうふうにヒトラーの軍を止めることができるか。どういうふうに、ヒトラーという恐ろしい存在が世界を全部自分のものにしてしまうことを防ぐことができるかということは、私にとって非常に苦しい問題だったのです。
その時私は、『源氏物語』の中へ逃避したのです。私は自分の周囲にあるもの、あるいは新聞に出てくるようなものを、一応忘れることができたのです。逃避することは、必ずしも感心に値すべきものではありませんけれども、私にとっては、あの頃の『源氏物語』は本当に貴重なものでした。私を助けたものでした。
何に感心したかというと、まず『源氏物語』を読みますと、もちろん英訳でしたが、美の世界が広がってきます。自分の目の前に、見たこともないような美しい世界がありました。確かにヨーロッパの歴史を読むと、時代にもよりますけれども、大変ぜいたくな生活をしたような王室があったことがありました。あるいは、小説家とか、劇作家とか、あるいは画家を育てたような王室もありましたけれども、しかし少し読むと、その暗い面が分かります。王室は一方でそういう芸術家を守っていたのですが、もう一方は一般庶民を非常に苦しめたとか、そういうこともありました。
『源氏物語』を読めば、そういうような暗い面、そういうような醜い面はほとんどない。全然ないと言ってもいいです。敵(かたき)役になるような人物も、ほとんどいないんです。確かに、弘徽殿(こきでん)の妃は光源氏に対して不親切ですけれども、しかし、普通の小説の意味の敵役にならないのです。自分の息子を守りたいということだけで、源氏に対して不親切だということが言えます。
『源氏物語』の世界は、あらゆるものが美になる可能性があります。つまり、どの国でも自分の顔をきれいにする。女性がお化粧をつけたりして、自分をなるべくきれいに見せた、あるいはきれいな衣類を着て、男性に対して自分が魅力的な人物と見せることはありますけれども、しかし、光源氏の世界の中のあらゆるものが美的なものになり得たです。
手紙を書く場合は、ただその内容だけがきれいということでなくて、使った紙とか、使った墨とか、筆の使い方などあらゆることが考えられましたし、また、手紙ができた時、丁寧にそれをたたんで、また適当な季節の花をつけて、また、大変きれいな小姓にそれを預けて送るということだったのです。現在はそういうことは考えられないくらいのものです。つまり、現在、電話一本であるいはファクス一本で愛情を示すということになっています。
確かに、『源氏物語』には悲しみがあります。しかし、その悲しみは、何と言いましょうか、一番美しい悲しみだと私は思っています。つまり、人間は人間であって神ではないということは、一つの悲しみになります。どんな人でも年を取るし、病気にかかる。それは防ぐことできないんです。しかし、そういいますと、暗い社会でもないんです。むしろ大変美しい、光るような、光源氏の光るような輝く世界がそこに広がっています。1940年の私にとっては、どんなに魅力的だったでしょう。どんなに日本文学、あるいは『源氏物語』が面白いものだったかと想像できます。

私は、翻訳を読んで日本へ行きたいという気持ちが非常に強かったです。まだ戦争が始まらないうちでしたが、あるいは行けたかもしれないですけれども、もちろん学生でお金がありませんでした。後で分かりましたが、翻訳をしました英国の学者、アーサー・ウェイリという大変偉い方でしたが、アーサー・ウェイリ先生は何回も日本に呼ばれても、一度も日本に来たことがないんです。一度も来たいと思ったことはないんです。なぜなら、日本に行ったら、それは現代の日本で、ウェイリ先生にとっては現代の日本は全く、何と言いましょう、関係のないもので、自分の関心はもっぱら平安朝の日本にありました。『源氏物語』の世界、あるいは『枕草子』の世界にありまして、現在の日本と何の関係もありませんでした。
私は、後で日本に参ることはできましたけれども、その点ではもちろんウェイリ先生と違っていたです。もう一つ、私にも説明できないことです。私はウェイリ先生の翻訳を読んで、実にすばらしいものだと思いました。実に詩的な英語で書かれています。これほどの名訳はないと思っていましたけれども、同時に、どうしても原文で読みたい。原文で読めたらどんなにいいだろうとも思っていました。
私が日本語学校を卒業してからハワイへ派遣されたと申しましたが、その時は私たちは1週間に1日の休暇がありましたが、私はその休暇を2つにして、2つの午前中にしまして、ハワイ大学へ行ってそこで『源氏物語』を原文で読もうと、日本語の教授に申しました。教授は『源氏物語』を読んだことがありませんでしたから、当然、躊躇をしました。
しかし私は、どうしてもと言っていましたから、数人、私と同じように日本語を勉強したことのある海軍の軍人に、先生は日本語で『源氏物語』を教えるようになりました。私はあの時点で自分の日本語の理解力に相当の自信がありました。私は新聞、雑誌はもちろんのこと、日本軍が残したような書類でも、何でも読めると思っていたですが、しかし『源氏物語』の1ページ目からお手上げだったです。全然違う日本語だったわけで、私は一行の準備をするのに何時間もかかりました。
後悔していました。そんな無鉄砲なことをしなくてもよかったと思いましたが、しかしそれでも何か感じました。原文にあって名訳にないようなものがあったに違いない。それは原文の独特の美しさ。別の言葉で言いますと日本語の美しさだったのですが、後でもう少し詳しくそれに触れさせていただきたいと思います。
私はその時から、平安朝の文学に特別な関心がありましたので、同じ昭和18年(1943年)に初めて作戦に参加するようになった時に、わずか2、3冊の本の中の一つは、平安朝の官女たちの日記の英訳が入っていました。作戦は北太平洋のアリューシャン列島のキスカ島だったです。北垣先生がオーテス・ケーリさんの名前を挙げましたけれども、あの時、私たち二人きりでアリューシャンへ行きましたが、私のリュックサックの中に平安朝の日記が入っていました。恐らくアメリカの軍人に、同じようにリュックサックに平安朝の日記を置いた人は一人もいなかったと思います。
しかし、私はそれほど日本文学、特に過去の文学、平安朝の文学に惚れていました。戦争が終わりましたら、私は母校のコロンビア大学に戻りました。そこには私の先生、角田柳作先生がいらっしゃいましたが、先生は日本人でしたが、戦時中、日本に帰らないことに決定しました。日本人として非常に難しい決定だったでしょうけれども、先生は日本の軍部が非常に嫌いでしたから、軍部の下の日本は本当の日本ではないと思って、アメリカに残ることにしました。ところが、戦争が終わって、日本が負けた時に、大変憂鬱になっていました。もし、アメリカが負けたとすれば、同じように憂鬱になったと私は思っています。2つの国を愛する場合は、そういうような悲劇があり得るのです。
ともかく、私たち4~5人だったですが、戦時中に日本語を覚えて、どうしても日本文学を読みたいという人がいたです。私たちはいわゆる知識欲に燃えていました。長いこと、自分たちが勉強したがっていたような勉強ができなかったです。自分たちが読みたがっていたような本が読めなかったから、大学に戻って自由に何でも勉強できるようになりまして、実にうれしかったです。
また、変な言い方ですけれども、角田先生を搾取することにしました。というのは、角田先生は古い教育を受けましたから、日本の古典文学なら何でも読んでおられたです。そうして私たちは、いろんな組ができたんですけれども、平安朝の文学を読みたい人、あるいは中世の文学を読みたい人、あるいは元禄時代の文学を読みたい人、いろんな組ができたんですけれども、私は一番貪欲だったために、3つの組とも出ました。先生はきっと休む時間があまりありませんでしたが、私たちはめったにないような授業に、出席できるようになりました。例えば平安朝の文学の組だったら、私たちは『源氏物語』の中の「須磨」、「明石」の2つの章を読みました。あるいは『枕草子』も大分読めたのです。
元禄時代の文学は、それはもっと珍しかったです。私たちは西鶴の『好色五人女』を全部読みました。それはアメリカの歴史で初めての出来事でした。しかし、角田先生は古い日本人でしたから、あの組に絶対女性を入れないと言っていました。ほかに近松の『国性爺合戦』の一部分、あるいは芭蕉の『奥の細道』も読みました。
中世文学のほうは、『徒然草』と『謡曲』だったです。
私は、角田先生に対する恩を絶対忘れられないです。実に見事な体験でした。
私は、あの頃は本当に日本文学に惚れていました。例えば、『徒然草』を読んでその美しさ、日本語としての美しさを深く感じまして、日本語を一つも分からないような人にも聞かせていました。そういう人は、日本語が分からないと言っても、私はその言葉を無視して、「これを聴け」と言って。(笑) 例えば――
あだしののつゆきゆるときなく、とりべやまのけむりたちさらでのみすみはつるならひならば、いかにもののあはれもなからん。よはさだめなきこそいみじけれ。
(あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の烟立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。)
言葉の流れはいかにも美しくて、またそこに表れている考え方といいましょうか、私にとって全く新鮮なものでした。むしろ私が学生として読んでいたギリシャ悲劇の正反対の考え方です。つまりギリシャの悲劇の一番最後のところで、大体においては人が死ぬまで幸福と言うべきものではないというふうに、「幸福と言うなかれ」、つまりいつも何か悪いことが待っているかもしれない。自分がどんなに幸福に生活していても、あるいは翌日に何か恐ろしい体験があるかもしれない。だから人が死ぬまでに幸福だと言うなかれ。また、ギリシャ劇を読みますと、未来のことは分からないから、非常に不安を感じるのです。もし未来が分かりましたら別ですけれども、分からないからどの人でも非常の不安を感じるに決まっているというふうに書いてありますけれども、しかし兼好法師は、『徒然草』の中で、「世は定めなきこそいみじけれ」、つまりこの世は不定であるからこそ素晴しいものである。もし決まっているものだったら、もしその不定、定めなきものでなければそれほど面白い、それほど変化に富むようなものでなくて、もっとつまらないような世の中で、だから私たちは定めなきもの、あるいは早く滅びるようなものを貴重に思っています。
具体的な例を申し上げますと、日本人はどうして桜の花をそれほど喜ぶかというんです。梅の花もきれいですし、桃の花は中国人にどんなに愛されているでしょう。しかし日本人は、梅の花に関心があっても、それほどのものじゃないし、桃の花は全く無視されています。それは差別待遇です。(笑)
しかし日本人は、桜を喜ぶのは、やはり3日の後に散るからです。早く散るから、長く続かないです。梅の花のように汚くなるようなことはないんです。だから、定めなきこと、その仮のもの、長く続かないものは本当の美の本(もと)だと日本人は昔から感じていたです。
ギリシャ人はそう感じていませんでした。ギリシャ人は、例えば神殿を造る時に石、大理石とか、そういうものを使ってなるべく滅びないように建てていた。なるべく永遠にそのまま残るように、頑丈な建築を建てたです。
日本人は伊勢神宮を建てる時、なるべく腐りやすいようなもの――紙とか木とか、そういうものだけを使って、適当に消えてしまうようなものを喜んでいました。
私は初めて『徒然草』を読んだ時に深く感心したのは、今申しましたとおりですけれども、ずっと後、1966年、それは昭和41年でしたが、私は軽井沢にいまして、『徒然草』の翻訳をやっていました。私はいろんな翻訳をやってまいりましたが、あれほどしやすい翻訳はなかったです。もちろん、兼好法師の文体は英語の文体に全く似ていないんです。関係がないんです。英語に近いからやりやすいということは全くありませんが、しかし何となく、私自身が兼好法師になったという錯覚を起こしました。それで私は自然に、全く自分が書いているように、兼好法師の言葉を日本語から英語に訳してました。
一番やりにくいところはどこだったというと、それは当時の日本語に形容詞が非常に少なかったです。「あはれ」とか「いみじき」という形容詞が何回も出てきます。もし「あはれ」とか「いみじき」を毎回、同じ英訳をしましたら、英語として読めないんです。英語として非常につまらない英語になります。毎回、その全体の文章に応じまして適当な英語を使わなければならないです。
そしてその時、その翻訳をやりながら、いつもどこか自分の潜在意識から適当な形容詞が浮かんできたんです。私はそれほど兼好法師に近いというふうに考えていました。
私はまた、角田先生の授業に戻りますけれども、中世の授業の時に、『徒然草』のほかに『謡曲』、お「能」も読んでいました。私たちは終戦直後でしたが、能を見ることは全くできなかったです。日本へ行けませんでした。といって、私たちがお能を読んだ時に、舞台の芸術だという意識はほとんどありませんでした。純粋な文学の作品として読んでいました。舞台の上で効果があるかどうかは全く問題外だったです。私たちは悲劇といいましょうか、ギリシャの悲劇みたいに私たちはお能を読んで、また能の文章の美しさにびっくりしました。
私たちが一番最初に読んだ謡曲は『松風』でした。『松風』は恐らく全ての謡曲の中で一番美しいでしょう。また、一番難しいです。私は来年、また謡曲を教えますけれども、一番最後に『松風』を翻訳させますが、『松風』の難しさはいろんな原因から生まれるんです。よく言われていますけれども、「縁語」とか「掛詞」とか「しゃれ」とか、そういうことはもちろんありますけども、それは『松風』独特のものではないんです。『松風』にあるものは、すばらしい詩的な効果です。そして、翻訳者を苦しめるような飛躍とか、あるいは主語のなさに大変困りました。
私たちが読んだ時に、またその言葉の美しさに酔ったですけれども、例えば――
うらわのなみのよるよるは、げにおとちかきあまのいえ、さとばなれなるかよいじのつきよりほかはとももなし。
(浦わの波の夜夜は、げに音近き海士の家、里離れなる通ひ路の月より外は友もなし。)
これは条件なしにすばらしい日本語です。すばらしい言葉です。どう考えても実に見事な日本語です。
日本で「謡曲」を文学として読む習慣はありませんでした。最近までなかったです。謡曲は上演するものだというふうに思われています。だから、この文章はどうかということを問題にするような国文学者は、割合に少ないんです。むしろ能の文章はつづれ織りのもの、いろいろな錦の部分を合わせたようなものです。確かに引用文がたくさんあります。
それは能の魅力の一つです。しかし、それよりも世阿弥とか、あるいは観阿弥の文章の見事さをどうして一般の国文学者はそれを認めてくれないか、私には分からない。それは確かに日本文学の面白さの一つです。能の美しさは、実に世界の文学の中でも、どの演劇にもゆずるものではないと私は確信しています。

元禄時代の文学となると、また全然違うようなものになります。元禄時代というと、どなたさまでもそう思うと思いますけども、西鶴、近松、芭蕉という3人の天才のことは一番先に頭に浮かんできます。しかし3人とも全く違うような人間です。まず私は、あの頃は西鶴を読んで、そのユーモアにびっくりしました。実に面白いです。ユーモアは一番残らないものだと思います。例えば、シェイクスピアの喜劇の場合は、上演する時によく舞台の上の人たちはゲラ笑いしています。ハハハと笑っています。しかし、観客の一人も笑っていないです。(笑)
そういうことに何回も出会ったことがあります。つまり、ユーモアは消えるものです。当時の、何というか、「穿ち」、当時の風俗を馬鹿にするような言葉とか、当時のものについての皮肉を言うことは、ユーモアの一つの大事な部分ですけども、当時のものは300年が経つとみんな忘れるんです。何がおかしかったか分からなくなりますが、しかし西鶴の場合は、奇跡的にそのユーモアがまだ面白い。まだ私たちを笑わせるんです。
シェイクスピアには、それほどユーモアが残ってないような気がします。もしヨーロッパに同じようなユーモア、永遠に残るユーモアがありましたら、むしろフランスのモリエールではないかと私は思っています。
しかし、当時の国文学者たちは、まず西鶴のユーモアに全然言及してなかったです。西鶴はどうして面白いかというと、当時の、つまり徳川時代の武士階級の矛盾を厳しく攻撃したために、西鶴を読むべきだとか、そういうふうな考え方は一般的にありました。つまり、戦時中から180度の変化がありました。全く正反対な考え方があって、純粋な日本的なものは悪いものだというふうに思われてきました。
西鶴の書いたものは、別の意味で面白いです。彼は、ほかの作家にないようなところですが、象徴的ですけれども、『好色五人女』の扉絵に世之介という人物が、当時は8歳だったですが、8歳で屋根の上にいて、望遠鏡を持って裸になって行水してる女性を見ているんです。それは西鶴を象徴するようなものです。けれども、西鶴の小説、その物語を読む場合は望遠鏡がありますけれども、逆さまに使っています。つまり、人間をもっと小さくして、もっと遠いところにしています。だから、どんなことを書いても面白くなります。
例えば、八百屋お七(西鶴『好色五人女』)という人物。彼女は、どうしても自分の好きなお坊さん(寺小姓)にもう一度逢いたいと思って放火したです。放火して、江戸の半分ぐらいが燃えてしまいました。そして、最終的に彼女は死刑に処されます。それは滑稽の話でないです。ちっとも人を笑わせるはずの話ではないんですけれども、しかし西鶴が書く場合は、望遠鏡の逆用と言いましょうか、それによって八百屋お七は非常に遠いところにいるし、彼女がやっていることは何かというと、それは人間がやることです。もう彼女という特別な人ではなくて、一般の人間の非常に不思議な、あるいは滑稽なことをやっているんです。彼女はお坊さんに逢いたいから放火したです。何という変なこと。何という人間らしいこと。そういうふうに言っています。
西鶴は、一般庶民のことをいろいろ書いたです。ところが、それ以前に一般庶民のことを書くことがなかったかというと、そうでもありませんでした。例えば謡曲の場合は、私たちが謡曲を見ると、装束のすばらしさにびっくりしますけれども、『松風』はそもそもどういう人だったかというと、彼女は汐汲み車を引っ張るような、非常に低い職業の女性だったです。彼女は海へ行って、自分の車に塩水を入れて、そしてそこから塩を作ったんです。あれは決して貴族の職業ではありませんでした。それでも彼女は悲劇、すばらしい悲劇の主人公になれたです。もう一つ、『松風』と同じくらい有名な謡曲に『熊野(ゆや)』があります。熊野はどういう人物だったかというと、平宗盛の妾だったです。遊女だったです。決していい職業でなかったです。2人とも、ある意味では単なる庶民に過ぎませんでした。だから、狂言に初めて庶民が出たとか、あるいは西鶴の小説に庶民が初めて登場したと言ったら間違いだと思います。
しかし、西鶴のように庶民を書いた人はいなかったです。それは庶民の外側だけでなくて、考えていること、感じていることも書いていました。西鶴の書き方と近松の書き方は正反対だったです。西鶴は写実的に、人間をありのままに書いていました。距離を持っていたんです。人間にあまり近く、近づかなかったですが、しかし人間を正視して、人間はこういうものだと、冷静に書けたです。冷静でしたけれどもユーモアがあって、愛情もあります。近松の場合は、人間はこうであるべきというふうに書いたと思います。
例えば遊女のことですけれども、西鶴に出るような遊女、例えば『好色一代女』の遊女は、自分の職業を非常に喜んでいます。自分の誇りに思って、恥ずかしいとは思わないし、また自分の歳を取った両親を養うために、遊女になったということは全く書いていません。彼女は遊女になりたかったためになったんです。
近松となると、犠牲者ばかりです。犠牲者で、本当はすばらしい人間、心が清いです。仮に何千の男性と一緒に寝ても、自分はちっとも汚れてないと、そういうような女性を書いてるんです。私はどっちのほうが好きかというと、正直に言って、私は近松のほうが好きです。私自身の博士論文は近松について書かれたものです。やはり私はロマンチストでしょう。西鶴の写実主義よりも、近松のロマン主義のほうがより好きです。
3人目は芭蕉です。芭蕉は何とも言えないんです。私は『奥の細道』を教材としてずっと使っていました。いつか芭蕉についての会議の時に、私は正直なことを言って皆さんをびっくりさせました。私は少なくとも60回、『奥の細道』を読んだことがありますと。みんな驚いて、どうしてそんなにたびたび読まなければならないかと思っていました。私は実は授業の前の晩に読んで、そして翌日に学生たちと一緒に読むから、30年間教材として使う場合は、確かに60回読むということになります。しかし、もう一つ根本的な問題で、どうして60回読んだか。どうして30回、あるいは60回読まなければならなかったかというと、それは申すまでもないんです。非常に面白いからです。もっとはっきり言うと、俳句の魅力。それに紀行文としての魅力。それに一番大切なことには、芭蕉の魅力。その3つを合せたら、完璧な作品ができました。私は何回も読んでいても、いつも何か小さい発見をします。その時まで気がつかなかったような文章のうまさとか、あるいは俳句のニュアンスとか、そういうものに気がついた喜びは並大抵のものではありません。芭蕉の『奥の細道』を60回読んでも、あるいは足りないかもしれないです。
私は今までの一番好きな作品の話ばかりしてまいりましたが、しかし、正直に言って私は徳川後期の文学はそれほど好きではありません。私は読んで、なるほど面白いだろうと思いますけども、例えば馬琴の小説とか、あるいは『膝栗毛』(十返舎一九『東海道中膝栗毛』)とか、あるいは上田秋成、あるいは蕪村とか一茶の俳句。私は嫌いじゃない、決して嫌いじゃないんですけれども、しかし何回も読みたいという気持ちはありません。
あるいは私がもともと外国人だから、日本人ほどそういう時代のものに十分敏感でないかもしれないです。日本人にとっては、過去というものは大体においては徳川末期です。幕末です。時代映画がありましたら、いつも――いつもではないですよ、80%まで幕末の時代です。あるいはお寺の代表的な建築は何物かというと、それは決して平安朝の建築でもないし、室町時代の建築でもないし、幕末の建築です。それはありがたいお寺の建築です。唐門があって、それで日本人は落ち着くということです。しかし私は、そういう背景、私は育った背景が違うから、特別にそういう時代に親しみを感じない。その代わり、私はそういう、何と言いましょう、その国の人でなければ適当に鑑賞できないような文学があるということを認めてます。確かにそういうこともあるだろうと思います。
明治時代となると、また随分変わってくるんです。私は明治時代の文学が好きです。大傑作があったかどうか、未来の人が決めるでしょうけれども、私にとって極めて魅力的な時代だったです。
もしどうしても明治時代の文学の中で一番好きなもの、一番にもう一度読みたいようなものがどういうものかと聞かれましたら、ちょっと意外な作品を挙げると思います。それは、正岡子規と石川啄木の日記です。私はその2つ、子規にはかなり長い日記が3つほどありまして、啄木にもありますが、私はその日記を読むといつも驚きます。全く不思議なものです。というのは、幕末まで日本人がほとんど西洋の影響を受けてなかったです。西洋から学んだものは非常に少なかったですが、突然西洋が現れてくるのです。大変驚異的なものとして現れて、日本人は早く何かしなければ、あるいはフィリピンとか、インドネシアと同じような運命、つらさを味わうほかはないと日本人は思って、一日も早く、その異質的な文化を自分のものにしなければならなかったです。そして、見事に成功しました。
啄木は一番極端な例だと、私は思っています。啄木は岩手県の田舎で生まれて育ったです。彼の教育は、まずそういう小さい、寺子屋みたいな学校だったですが、何というすばらしい教育を受けたでしょう。実に驚きます。
彼の16歳の日記を読んでも、まず日本語の言葉の豊富さとか、いろんな難しい漢字も使っているし、漢文の引用文もあります。しかし、それだけじゃなくて、彼は16歳まで英語を十分覚えたです。彼はイプセンの戯曲の翻訳もできたです。また、彼は独学だったでしょうけれども、ピアノを弾くことを覚えたです。啄木はワーグナーの音楽の指揮だとか、ワーグナーに対して短歌を捧げたんです。それは考えてみると全く不思議です。岩手県の田舎の小学校しか出ていないような少年が、ワーグナーを知っていたし、ワーグナーのことについて短歌を読んだことは、私にとって奇跡的な話です。
また、啄木の日記を読むと、彼は実に鮮やかに自分の感情を書いています。何でも書いています。日記の中で一番面白いのは、ローマ字で書いた日記です。それをどうしてローマ字で書いたかというと、彼の説明によると、なるべく奥さんが読めないように・・・。しかし、彼は、あるいは書いた時にそういうふうに思ってたかもしれませんけれども、しかし奥さんは大体啄木と同じ教育を受けたから、ローマ字を読めないことはないと思います。しかし、それは一つの口実と言いましょうか、気晴らしとしてローマ字で書くと、何でも暗号みたいなものとして書けるだろうと思って、自分の恥ずかしい体験、つまり女郎屋へ行った時のいろんなことを書いていますし、あるいは自分と一番親しい友達、金田一京助という偉い学者の悪口、女々しい男だとか、そういうふうに書いて、啄木は何でもそのまま書いて、しかし一番厳しい非難は、自分自身に対してだったんです。例えば日記を何回も何か書いて、立派な文章を書いて、その次は、今朝書いたものは嘘だと書いたです。
今朝書いたものは嘘だと。以前に日本人がこのように書いたかどうか、私は疑問に思っています。多分誰もそういうことを考えてなかった。啄木という不思議な、非常にはっきりしたような個性のある人でなければ書けなかったです。
正岡子規の場合は、日記は、2つは自分で載せましたから、自分の家庭のことをあまり書けなかったですが、3つ目の日記は自分自身のためだけに書いたもので、自分の世話をしていたお姉さんとかお母さんのことを、随分厳しく書いています。私は読むと、何となく不愉快に思います。その2人の女性は、正岡子規の犠牲になっていたわけですけれども、しかし読むと、その文学的な強さを疑うことができないです。それ以前の文学に全くありませんでした。
明治時代の小説の中で何が一番好きかと、何回も聞かれたことがあります。非常に返事しにくいような質問です。つまり、その時その時の私の気分とか、あるいはある観点から見るとこういう作品は非常に大切であると、そういうことはありますけれども、もしどうしても一つだけに絞る必要がありましたら、また意外な選択でしょうけれども、私は有島武郎の『或る女』にしたいと思います。それは常識に反するような選択ですけれども、私はその小説を読むとびっくりすることが何回もありました。よくもあの時代の人は、あんなに私たち現代人に通用するようなことが書けたかということです。本当に生き生きしているような文章です。また、小説全体は、現代に読んでもちっとも古くなっていないです。当時のものとして面白かったとか、当時の表現として新しかったとか、そういうような条件をつける必要は全くありません。現代の小説と呼んでもおかしくはありません。特にその前半はそうだと私は思っています。
有島武郎の小説はそれほど人気がない、それほど読まれていないのですけれども、しかしあるいはまた、外国人として読んでいるからそういうふうな選択をするのかも存じません。私は別に自分の選択を弁解する必要を感じないですけれども、率直に申しますと、有島武郎の『或る女』は、面白い文学の中で特別に面白いものだと思います。
もう一つ、同じように楽しく―—『或る女』ほど楽しいものじゃないんですけれども、本当に面白く読ませるようなものに、永井荷風の『あめりか物語』と『ふらんす物語』を挙げたいです。『あめりか物語』は特別にすばらしい傑作だと思います。どうして今まで翻訳できなかったか分からないですけれども、私は一日も早くやりたいという気持ちもあります。
荷風は明治中期ですか、アメリカへ行って、実に鮮やかな文章で、当時の社会あるいは日本人としてアメリカにいることはどういう意味かとか、そういうようなことを書いて、あるいは自分の、何と言いましょうか、多少ロマンチックな理想をその中に書いたです。『ふらんす物語』も同じように面白い文学だと思います。

そう申しますと、大抵の方の常識に随分反すると思います。例えば、どうして森鴎外を挙げないかという人が、きっとおると思います。私は、また正直に言って、森鴎外の小説を読んで面白いと思うことはほとんどないんです。私は偉大な文学者だと思っています。私は、実にすばらしい文章でものを書いていまして、その文章は現代の作家にも影響を及ぼしていることを認めています。しかし、例えば『渋江抽斎』という森鴎外の傑作を読んで、「次のページを早く読みたい」という気持ちは全くないです。あるいは、極端に言うと2、3回同じページを読んでも気がつかないこともあります。(笑)
森鴎外は立派な作家でした。立派な人物だったと思います。私は森鴎外の伝記を読むことが好きです。きっと、会ったらかなり厳しい顔をする人だろうと思いますけれども、しかし同時に尊敬できるような人物であったに違いないと思って、私は残念なことに生まれがちょっと遅かったから、森鴎外に会うことはできませんでした。
しかし、日本人の常識では、日本の近代文学の中でも、つまり明治文学に限らず近代文学全体に一番優れた作家は夏目漱石に違いないと思われるでしょう。千円札に出ているくらいです。(笑) 私だったら、千円札に永井荷風は面白いと思います。(笑)
私は、漱石の文学を嫌いだと思いません。私はむしろ面白く読んでいます。また別の意味では、20世紀における日本人の運命を知ろうと思えば、何よりもの資料になります。何よりも参考になります。私は、夏目漱石の小説は大変、何と言いましょう、苦労して書かれたものだと思います。私はその苦労を尊敬しています。実に立派な小説家だったと思いますけれども、しかし、日本文学の面白さというと、私は「面白い」という言葉は不適当だと思います。例えば、私は『道草』を読んで、「面白い」と絶対思いません。私は読んでますます憂鬱になって、世の中は案外暗いところだと思って、何も楽しみがない。もし楽しみあるいは面白さがあると、やはり初期のものだと。『吾輩は猫である』とか『坊っちゃん』あるいは『三四郎』、そこまで私は確かに面白いと思いますが、あとは私はどっちかというと、相当苦労して読むほかはないんです。
そう申しますと、私の日本文学の鑑賞の限界があるというふうに思われる方がいらっしゃると思いますが、私は仕方がないと思います。ともかく、私はなるべく正直に、自分の好き嫌い、あるいは日本文学の面白さについて話してまいりました。
現状はどうかということです。現状は、以前に誰も考えたことのないようなことがあります。つまり、日本文学は世界文学の一つになりました。世界文学の一つになったと、どういう意味かというと、世界中で日本文学が読まれているんです。翻訳で読まれています。
『源氏物語』ができても、日本人が『源氏物語』を最高にすばらしい文学作品と思って崇拝しましても、外国で全く知られていなかったです。隣の韓国あるいは中国で、そういう物語があるということは全く知られていなかったです。現在まで中国語の翻訳がありません。しかし、まず英訳ができて、後でドイツ語訳とかフランス語訳、最近ロシア語訳もできまして、日本にこんなに偉大な傑作があったことは、ヨーロッパ、欧米人にとって非常に驚いた事実です。日本にはそういう文学、『源氏物語』に限らず、『平家物語』とか中世文学、元禄文学があったことは、外国人にとって全く意外な発見でした。
『源氏物語』の英訳が初めて発表された時点に、日本の文学として知られていたものは俳句だけでした。そして、俳句の中でも、一番かわいらしい俳句だけだったです。蜻蛉(とんぼ)についての俳句とか、そういうような俳句は、いかにも日本的だと思われていました。芭蕉の俳句はあまり知られていなかったです。
しかし、ヨーロッパ人やアメリカ人が『源氏物語』の英訳を読んでびっくりしました。ヨーロッパ文学に、何に匹敵するかと。ヨーロッパ文学に、必ず何か似ているようなものがあるはずだと。そうしていろんな人が自分の好きな文学作品を挙げているんです。もちろん関係もないし、似ているところはほとんどない場合がほとんど事実ですが・・・。しかし、日本文学をもう無視できないということになりました。
今の話は、大体60年前のことです。ところが戦後になって、また大きな変化が行われました。戦後まで日本の近代・現代文学の翻訳はほとんどありませんでした。戦前の日本語、日本の近代・現代文学の翻訳としては、どんなものがあったかというと、例えば賀川豊彦の小説、現在はどのぐらい読まれているか分かりません。それは宗教的な意味で訳されたと思います。あるいは全然違う意味で訳された、火野葦平の『土と兵隊』の翻訳がありました。ほかに私の記憶に全くないんです。
谷崎潤一郎の翻訳はもちろんなかったし、永井荷風、志賀直哉、森鴎外、夏目漱石等々、翻訳はなかったです。しかし、非常に悲しむべきことがありました。戦争があったです。戦争が始まることによって、アメリカなどでどうしても日本語の通訳がいりました。私など若い人―—私は19歳でしたが、日本語を教えたです。恐らく日本語を覚えた人の数は、アメリカ人だけでも5,000人ぐらいいるでしょう。
中で、日本の研究、日本と関係のあるような仕事を続けた人は、恐らく50人ぐらいしかいなかったです。ほかの人たちは、日本語を勉強しましても、日本語、日本の研究をやっても、就職できないだろうという常識がありました。戦後の頃は、日本はもう駄目だと一般に思われていまして、日本が立ち直るは50年間かかるだろうと。就職は不可能だろうと、みんな思っていたです。ということで、一部分の人たちは中国研究に切り替えしたですが、多くはやはり医者、弁護士、技師、そういう職業に就いたです。日本語を覚えたけれども使いものにならなかったです。
しかし、その50人、つまりどんなことがあっても日本研究を続けたいという人たちは、その後、翻訳をやるようになりました。日本の近代・現代文学の翻訳。一番最初のいい翻訳は、谷崎潤一郎の『蓼喰う虫』。それは決して新しい小説ではありませんでしたが、翻訳が発表されましたのは1955年。つまり昭和30年でした。そしてその時から毎年のように翻訳が出まして、外国、あらゆる国で訳されてます。私は去年の11月いっぱい、パリにおりました。10年前でしたら、パリの本屋でいくら探しても、日本文学の翻訳、特に日本の近代・現代文学の翻訳はなかったと思います。しかし、現在、パリの大きな本屋へ行ったら、それはどこか隠れた所じゃなくて、ウィンドー、一番目立つところに日本文学、現代文学のフランス語訳が出ています。その翻訳者は、私の世代の翻訳者と違います。つまり戦時中、フランス人が日本語を覚えてなかったですが、しかし私の世代の人たちが訳した本を読んで、そこから刺激を受けて、自分たちも日本文学の翻訳をやりたがるフランス人やアメリカ人、英国人、ドイツ人が何人もいたと思います。11月にパリのウィンドーで見ていた時に、意外なものも出ていました。例えば、中上健次の小説の2、3冊のフランス語訳がありました。また、古井由吉の小説のフランス語訳もあって、私は本当に感心しました。そういう小説も至る所で見ることができたんです。
そういう小説も至る所で見ることができたんです。しかし、何と言っても一番知られている小説家、海外で一番知られている日本の小説家、あるいは歴史以来、条件なしに一番外国で知られている日本人は、三島由紀夫だろうと私は思っています。つまり、徳川家康の名前を知らないような人でも、明治天皇の名前を知らないような人でも、三島由紀夫の名前は知っているんです。
それは例の切腹の事件と必ずしも関係ないと思います。というのは、三島氏が自決する前からも海外でよく知られていました。「世界の100人」の中に、日本人は1人しか入っていなかったです。三島由紀夫だったです。当時の総理大臣、佐藤栄作が出ていなかったし、あるいは日本の天皇も出なかったけれども、三島由紀夫が出ていました。そして、海外で三島由紀夫の文学、あるいは三島由紀夫の伝記とかそういうものは人気があって、広くいろんな人がやっています。三島文学の何が特別に面白いか、どうしてそれに人気があるかというと、2つ、かなり違うような様子があるからだと思います。
一つは、小説家として非常な才能があったと私は思っています。小説家にどうしても欠けてはいけないような才能があったために、どんな人が読んでも、海外で翻訳で読んでも面白いです。小説が面白くなければ、つまりただ知識を得るために読む本だったら、小説として失格だと思い、どうしても面白いものでなければならないと、私は思っています。三島さんの文学に、それが確かにあります。
もう一つは、三島文学に何か外国にないようなものがありました。外国にないようなものと申しますと、異国趣味ではないかと疑う方もいらっしゃると思います。そういう面は多少ありました。初めて日本文学に接触したような外国人は、確かに異国趣味で読んでいたんです。特に俳句を喜んでいたような人たちは、自分の国にないような小さいものについて書かれた俳句を喜んでいました。自分の国で、小さい虫について詩を書くことはあまりないとか、そういうことで喜んでいました。
私自身の話に戻って恐縮ですが、私は子供として、日本はどういう国かよく分からなかったですが、子供向けの百科事典に、日本についての一冊があったです。私はそれを何回も見たですけれども、日本の橋はみんな太鼓橋だと思って、とても羨ましく思っていました。アメリカの橋は全然面白くない真っ平らなもので、日本の橋はみんなこういう〈アーチ〉形で、それは本当に異国趣味だというほかないです。私は日本の本物の橋を見てがっかりしたんですが・・・。(笑)
そういう異国趣味は確かにありましたし、あるいは三島さんの小説を初めて読む人はそう感じるかもしれませんが、しかしもっと深いところには、例えば三島由紀夫の『近代能楽集』があります。『近代能楽集』というのは、昔の謡曲が近代版になって、昔の場面が例えば精神病院になるとか、あるいはどこか大変高い洋服を作るようなアトリエとか、そういう新しい場面になって、登場人物はみんな現代人。彼の心境は現代の人にふさわしいものです。しかし、その後ろに能の構想があって、能の特別な自由があります。三島氏はその自由を非常に重んじていました。例えば西洋の芝居の場合は、例えば最初の場面はこの舞台で、次の場面は森の中だという場合は、まずカーテンを下ろして、そして次の場面、2つ目の場面は森の中とか、そういうことを言わなければならないです。しかし、能の場合はワキが出て、彼は「我いまだ西国(さいこう)を見ず候程に」(『松風」』)、そして彼は少し前に進んで、また右へ行って、また戻って、「急いで参りましたから案外早く着きました」と言う。別にカーテンを下ろす必要は何もないんです。そういうような自由は能にあります。三島氏はそれを上手に利用しまして、その時まで現代の演劇になかったような新しいものを作って、その新しいものは逆説的なことで、新しいといっても実は一番古いものです。一番日本の伝統に基づいたようなものです。
そういうような意味で、三島由紀夫の文学が海外で非常に喜ばれてます。例えば『金閣寺』の英訳が出た時に、大変な評判になりました。あの時、三島さんはニューヨークへ行きましたが、ニューヨークでいろいろなインテリに会いまして、みんな禅について難しい質問をしてました。『金閣寺』の中で、もちろん金閣寺というお寺は禅寺で、中に僧侶の話ですが、三島さんは、「あれは小説でした。私はあまり興味がない」といくら言っても、みんな信じてくれなかったです。あれほどのことを書く人は、きっと禅のことを深く信じている人に違いないと思っていたです。ともかく外国の文学にない要素で、禅のような問答とか、そういうものは外国の文学になくて、読む人は大変感心しました。
私は、予言者としての資格は一つもないんです。未来はどうなるか分からないです。ところが、今までの傾向から言いますと、今までよりも日本文学が世界文学との接触が頻繁になると思います。また、海外では日本文学が読まれることは本当に日常茶飯事みたいなものになって、日本文学を知らないようなインテリは、ある意味では軽蔑されると私は思っています。今でも三島の名前を知らないようなインテリだったら、人が笑うと思います。あるいは安部公房、大江健三郎の場合でも、名前を聞いたことのないようなインテリは、インテリとして失格だろうと思います。そういう傾向が強くなると思いますけども、その一番の原因は、日本の近代・現代文学、現代文学が特に面白いからです。面白くなければ、ただ珍しい、それだけだったら異国趣味で読まれることがあるでしょうけれども、しかし文学として鑑賞することはあり得ないんです。
私は幸い現在、日本文学を自分のものにしたい。自分から、自分の新しい文学作品に貢献できるものとして読んでいます。現在の外国人の作家は、日本文学の外国語訳を読んで影響を受けているに違いないんです。はっきりと言ってる人も何人もいます。特に安部公房の文学はそういう影響力は相当あります。これから益々そういう傾向が強くなります。ともかく、私はそう思いたいです。
私は、日本文学の専門家になる決心しましたのは、45年前のことで、さまざまなことがありましたが、私はその間にいろいろ失敗もあったし、間違った決断をしたと思いますけれども、一つだけ間違いのない決断があったとすれば、それは日本の文学の専攻だったと思います。
ありがとうございました。(拍手)











