学長室だより
2012年度卒業式式辞(鈴木佳秀学長)

2012年度卒業式での鈴木佳秀学長の式辞
本日の卒業式に臨んだ学生諸君の皆さん、おめでとうございます。
学生諸君だけでなく、皆さんを送り出してくださったご家族の皆さまに対しても、学長として、お祝いの言葉を述べさせていただきます。
皆さんは、4年前の2009年4月3日の入学式のことを覚えておられますか。入学式の場所は、新発田市民文化会館でなく、この聖籠町町民会館でした。新発田市民文化会館の改修工事のため、その年に限り、変更されたからです。その入学式は、わたくしには忘れることのできない思い出として、記憶に残っています。なぜなら、わたくしが敬和学園大学の学長に就任したのが、4年前の4月1日であり、最初に手がけた公的な行事が、就任2日後の、皆さんの入学式であったからです。わたくしも、皆さんと同じように大学に入学したのです。
その入学式の式辞で、皆さんに語りかけた内容について、覚えておられる方はほとんどおられないのではないかと思います。その時、わたくしは旧約聖書に登場するアブラハムという人物について触れて、式辞を用意しました。皆さんが入学されてから送ることになる4年間を覚え、いわば自分自身にも語りかけるように、式辞を準備したことを思い出します。わたくし自身も、入学された皆さんと同じように、自分にどのような生活が待っているのか、どのような出会いがあるのか、予測できる予備知識もないまま、この大学での第一歩を踏み出したからです。
イスラエル民族の父となるアブラハムという人物は、神の呼びかけに答え、決断をし、全く新しい人生を歩み始めたのです。行き先についての情報もないまま、どのような人生の展開が待っているのかについて、何の保証もないまま、神の呼びかけに従い、アブラハムは旅に出たのです。まだ見たことのない約束の地を目指して旅立ったのですが、彼が信仰をもって旅立ったことから、結果的に、世界の歴史が変わったのです。彼の決断が、後のユダヤ教、キリスト教、イスラム教を生み出したことは、1,000年以上も後になってから分かることですが、アブラハム本人は、神を信頼するその思い、それをわたくしたちは信仰と呼びますが、その思いだけで、小家畜の群れを引き連れて、彼は旅立ちました。
このいでたちは、危険に満ちた旅となったはずです。彼は遊牧民でしたが、遊牧民は通常の遊牧ルートを巡回しながら牧草地をめぐり、一巡すると、もとの牧草地に戻ってくるのが生活のリズムでした。でも彼は違う生き方を選択したのです。一度も行ったことのない、全く知らない道をたどり、ひたすら先に進むことを余儀なくされたからです。神に応答して生きる道を、アブラハムは選んだのです。皆さんが大学に入学された時も、そこから始まった旅もまた、皆さんにとって同じ意味合いを帯びていたといえます。
皆さんは、入学式の時、4年後の今の自分を想像できていたでしょうか。当時、4年後の自分がどのようになっているか、どのような地平に立っているのかについては、全く予想もできなかったでしょう。その意味で、皆さんにとっても、行き先を知らずに出ていったアブラハムにとっても、同じ旅ではなかったかと思います。
神に示された土地にたどり着いたのですが、アブラハムはそこで飢饉に遭遇しました。これは一体何だ、何のために自分は旅をしてここにきたのか、と問い返すのが普通ですね。凡庸な人であれば、神に騙されたと口走りかねないところですが、アブラハムはそれも試練として受け止め、神への信頼を投げ捨てることはしなかったのです。この4年間、あるいはそれ以上の年限を費やした学生諸君も中にはおられることと思いますが、それは皆さんが想定したとおりの日々でなかったと思います。予想外の、厳しい現実に遭遇されたことでしょう。
特に2年前の3月11日に発生した、東日本大震災は、誰にとっても、忘れようにも忘れることのできない出来事になったはずです。この4年間に、このような悲しい経験を積むことになるとは、この場にいる誰も想像すらできないことでした。当たり前のことなのかもしれませんが、わたしたちの人生は、宿命的に決まっていないからです。誰も、自分がどのような出会いをし、将来どのような出来事を経験するかは、分かっていません。
皆さんは、この4年間を敬和学園大学で過ごし、走り終えて、今、社会に旅立とうとしておられます。入学式の時の皆さんと比べ、今卒業式に臨んでおられる皆さんは、はっきりと違っています。それは、皆さんがこの敬和学園大学で学び過ごした4年間が、あなたがたの経験として蓄積され、それが力として働き、大学での学びがあなたがたの足もとを照らす、明かりとなるからです。
ルソーは『エミール』の中で次のように語っています。
「わたしたちは、いわば、二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために。」
含蓄のある言葉ですが、人は生物として生まれるだけでなく、教育を受けることで、人は目的を持った存在として生まれる、つまり、人格として生まれるのだ、ということを、ルソーは語ってくれています。人は生物学的に生まれてきます。それは事実です。でもそれだけでは、生物学的に人という「種」に属すだけの存在でしかありません。人間は、ただ生物として生まれてきた存在にすぎないのであれば、その本能に従って、動物として生きればいいだけです。でも、それだけであれば、人間としての尊厳は、どこにあるでしょうか。人が教育を受けるということは、人格的な存在として生きるためなのです。つまりルソーの言葉を借りるならば、人として生きるために、わたくしたちは生まれなければならないのです。
敬和学園大学の、キリスト教主義に基づく教育精神によれば、人が、人としての尊厳を与えられるのは、主なる神が、人間を、神にかたどって創造された、という確信に基づいていると言わなければなりません。
それは、それぞれの学生諸君の個性を、神から与えられた賜物として、尊重する精神につながります。学生諸君の魂を、一人ひとり大切に受けとめて接してきたのは、この精神によるものなのです。そしてそれは、皆さんが経験された、敬和学園大学だけの伝統です。
今、皆さんは新しいスタートを切ろうとしておられます。社会に旅立とうとしている皆さんに、聖書の言葉を贈りたいと思います。
それは新約聖書『エフェソの信徒への手紙』4章21節〜24節です。
「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に惑わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」
これから新しい生活を始める、卒業生の皆さん。皆さんの未来に、主なる神の祝福が豊かに臨みますよう、祈ります。
2013年3月22日
敬和学園大学長 鈴木佳秀










