学長室だより
2011年度入学式式辞(鈴木佳秀学長)

2011年度入学式での鈴木佳秀学長の式辞
学生諸君の皆さん、ご入学おめでとうございます。入学された学生諸君に対してだけでなく、ご家族の方々、保護者の方々に対し、学長として式辞を述べさせていただきます。
皆さんが過ごされた高等学校の3年間はどのような毎日でしたか。平穏のうちに、あるいは楽しく過ごされた方もある一方で、大変苦労して卒業にこぎ着けた方もおられるのではないでしょうか。
でも、皆さんが共通して思い出すのは、卒業間際に、すなわち3月11日午後2時46分に発生したマグニチュード9.0の大地震と、それに続く、想像を超える大津波によってもたらされた、すさまじい震災のことだと思います。
このような悲劇的な震災の記憶を、誰しも、恐らく一生忘れることはないでしょう。ましてあなたがたは、高等学校卒業時にその出来事のニュースに遭遇したわけですから、常にそれを、卒業時の記憶と重ねて思い出すことになるでしょう。
事件やニュースとして、ひとつの出来事として語る私共と違い、被災者の苦しみは、今も現実に続いています。
3月11日の震災のニュースやその後の福島原発のニュース報道を見るたびに、胸がつぶるような気持ちになります。
この国が被った震災にあえて触れましたのは、私共に背負わされている責任を痛感するからです。
復興のために、力を合わせ、互いを思いやり、助け合うことが、今、いちばん求められているからなのですが、亡くなられた方々に、深い哀悼の意を表明し、それと同時に、これからの時代を心して生きていきますと、お約束したい思いにかられるからです。
入学式に臨み、共に生きるという本学の建学の精神に鑑みて、今、こうして命を与えられ、入学式に臨むあなたがたにも、一生懸命生きていただきたいと思う次第です。それが、震災で亡くなられた方々への、慰霊になると思います。
ただ、入学される学生諸君に、すぐに行動を起こし、ボランティアの一員として現地に飛んでくださいと言うわけにはまいりません。まず皆さんには、大学生としての4年間を全うすることを、第一に考えていただきたいからです。
苦しんでいる人のために働きたいと思うその心は貴重で、何にも代え難い大切なことです。しかしながら、学長として申し上げるのは、もう少し、時を待っていただきたいということです。今できることと、大学4年間の研修の間にできること、あるいは卒業後にできることとを区別して、何を優先させるかをよく考えていただきたいからです。
被災した地域の再建のために働きたいという志を立てておられる方は、この中にも大勢いると思います。大学での研修を終えて、学び舎を巣立った後、被災した方々のため、被災した地域のため、お役に立てる仕事を探し、そこで誠心誠意働く機会は、必ず与えられるはずです。
被災地の復興には、間違いなく10年や20年はかかります。皆さんの力が用いられる時は、必ず訪れます。
敬和学園大学は、神を愛し、人に仕える精神を理念として、1991年に建学されました。
昨年、10月30日に、20周年記念式典を挙行しました。この20年間、学生諸君や教職員が培ってきた精神、キリスト教主義、国際主義、地域主義、その全てを支えているのが、今申し上げた、誰かのために生きるという理念です。
北垣宗治初代学長は、建学の精神を、「敬和がわたしを創った、わたしが敬和を創った」というメッセージをもって、学生諸君に語りかけておられました。
新井明第二代学長は、「木を育てるように人を育てる」と、敬和学園大学における教育の理念を語っておられました。いずれも、建学の理念を言い表す、すばらしい表現です。
わたくしも、「何かのために生きる人材よりも、誰かのために生きる人材を送り出す」、それを目標として掲げております。
今日、入学される学生諸君に申し上げたいのは、建学の精神や教育理念を学んでいただきたいということに尽きています。本学の理念をもう少し平明で率直な言葉で言い替えるならば、隣人への配慮ができる愛の精神を身につけ、自分なりの生き方を確立していただきたい、ということです。
高等学校時代の3年間は、あなたがたのこれらかの長い人生を考えるならば、いわば準備の段階です。同じ学校法人の敬和学園高等学校は「自分探し」という言葉を掲げています。「自分を見つけた」という、気持ちの準備ができている人は、大学での4年間をフルに活用し、たくさんの友人をつくり、自分の隠れた才能や得意分野、特技をさらに発見することになるでしょう。
敬和学園大学では、「自分探し」をした人に、さらに深く「自分を知る。世界を知る。」という経験を積んでほしいと願っています。自分の居場所を見いだした上で、社会で生きるための実習や経験を積み重ね、誰かのために、何かができる自分を、知ってほしいと願っています。
この4年間は、自由な時間として皆さんに与えられています。その自由を、どのように活用するか、あるいはそれを無駄にしてしまうかは、皆さん次第です。
「たとえ」での話として申しますが、大学生の4年間は、あなたがたが、さなぎになる時間なのです。高等学校までの皆さんを、青虫だと決めつける意味ではありません。青虫は、せっせと葉っぱを食べ続け、4回ほど脱皮を繰り返して、成長していきます。姿や形はあまり変わりません。大きく太るだけです。
また、ひたすら葉っぱを食べ続けることが、青虫としての使命なのです。高等学校までの学習は、ひたすら与えられた課題を消化する、そのようなものではなかったでしょうか。これは皮肉を言っているのではありません。
大学の4年間は、あなたがたが、精神的に、さなぎの状態になることが求められている時間だ、と言えるからです。それは、引きこもりの状態になるという意味ではありません。変身をする準備段階という「たとえ」です。
ところで、さなぎになるというのは、どのような状態になることだと思われますか。皆さんはご存じでしょうか。
あくまで「たとえ」の話ですが、実際に青虫がさなぎになると、外からは見えないのですが、さなぎの体内は、実はドロドロの状態になっていることが分かっています。神経と呼吸器系以外の、すべての細胞がドロドロになるのです。
そのドロドロの状態の中から、次第に、羽の部分や触角、目などが形成され、羽化の時まで、変身を続けます。そして、変身が完了した時、最後に、さなぎの殻を破って、羽化し、空に羽ばたくのです。どうして、これがあなたがたにとっての「たとえ」になるのでしょうか。
このさなぎの話は、人間の精神的な成長と重ねてよく使われますが、ここでは、あなたがたにもっと分かりやすく、これから過ごされる大学での学びとの関わりで、「たとえ」の説明をしてみたいと思います。
これまで小学校から中学校を経て、高等学校まで、皆さんは、文部科学省指定の学習指導要領の枠内で学んでこられたはずです。国が定めた教科書をひたすら学び、赤線を引き、必要事項を暗記し、入試に備えてこられたはずです。
そうした教育上の枠組みが、大学に入学すると、一変してしまいます。「たとえ」としてですが、実は、それまで詰め込まれてきた知識や常識が、ドロドロの状態にされる、あるいはドロドロの状態になってしまうといえるのです。
大学での教育とは、高等学校までの学習とは全く異なります。それを、入学式にあたり、あなたがたに申し上げておきたいのです。
ドロドロになる経験は、必ずや、あなたがた一人ひとりにとって、スリルに満ちた体験になるはずです。
大学では、これまで当たり前とされてきたことを取りあげ、まず一度、その当たり前とされた真理という大前提を取り外します。
これまで教科書で歴史的事実だとか、真理だとして教えられてきたことを前に、それは本当かなと疑問を持つように、またどういう意図で真理であると教えられているのか、どのような意味を帯びた歴史的事実であるのか、そうした出来事や現象に、どのような説明がなされてきたのか、そのようにあなたがたに問いを投げかけるからです。
大学の授業では、そうした疑問をあえて投げかけることで、あなたがたが、改めて自分で資料や文献を探し、事実を調べ、歴史を学び、時には、使われているオリジナルな原語で確認するということが求められます。
学生諸君によっては、前提が崩されるので、それまでためてきた常識がドロドロになってしまうと感じるかもしれません。しかし、そこに積極的な意味があるのです。恐ろしい経験ではありません。あなたがたには心地よい経験となるはずです。
何が真実で、真理であるかを自分で発見するプロセス、それが大学での学びだからです。
この真理があなたがたを自由にするのです。
新約聖書ヨハネによる福音書8章31節にある言葉をご紹介します。
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」敬和学園大学が創設されるときに、基となった聖書の言葉です。
この聖書の言葉の意味を、今ほど申し上げた大学での学びという観点から、かみしめていただきたいと思います。
大学の講義や演習では、神経や呼吸器系のように、高等学校で培われた基本的な部分は残しつつも、あなたがたを新しい問いかけの前に立たせます。
高等学校までの教科書に書かれていることを真に受けて、そのまま鵜呑みにしないようにと言われるはずです。また、これまで人々が真理だと信じていることでも、本当にそれは真理なのかを、どのような意味で真理なのかを、一度問い直してみるように勧められます。自分で資料にあたり、テキスト文献を読み、自分で確かめる、そうしたことが求められるからです。
もちろん、これまで高等学校で学んだことが全て噓だった、意味がないということを申し上げているのではありません。
そこに大切な真理は含まれています。でも大学での授業は、既存の前提を疑うことから始まります。書かれているから真理なのではなく、どのような意味で真理なのかを、自分で突き止めることを尊重するのです。真理と信じられているものを、侮蔑するのではありません。
これまで学んだ知識を、別の観点から問い直し、偏って理解していたかもしれない部分を改める、それが本来の意味で真理の発見につながるのです。
つまり、それが、ドロドロになったようであっても、新しい体内組織を作り上げていくことになるのです。
言い換えますと、複合的な視点を持った理解、自分で見いだした知識、自分が納得できる真理が、知性として集積されるのです。それが、あなたがたの物を見る目を創り、飛躍するための羽を創造し、真理を知る豊かな心まで授けます。
大学の4年間は、そうした意味で、変身するための挑戦の時だといえます。
義務教育や、厳しい校則という枠付けがなくなるという意味では、あなたがたは自由です。ただし、この自由には、社会人になるための義務が伴います。あなたがたが享受する自由が、その価値を輝かせるかどうかは、皆さんの努力次第です。
さなぎになる段階や羽化の時期は、それぞれの学生諸君によって異なりますが、敬和学園大学は、そうした学生諸君の求めに答えるだけの準備ができています。
敬和学園大学では、一律に、右へならえという教育はしておりません。あなたがたの自主性を尊重しつつ、共に生きる社会の形成に向けて、福祉マインドを持った生き方を学んでいただきたいと願っています。
敬和学園大学では、人への接し方、細かな配慮、心遣いという精神を身につけていただくための、ボランティア活動を通した経験づくりを尊重しています。
チャペル・アッセンブリ・アワーでは、本学の理念の根底にある聖書のメッセージに触れていただき、また社会で人々のために働いておられる方々の、講演を聞いていただきます。国際社会や地域社会について、現実に即した理解を持つように、また出ていく世界で、どのような活動が可能なのか、それを知るための手助けをします。
これから皆さんと一緒に、私共、教職員も、まだ見えざる4年間という未来に向けて、この入学式から、歩み始めることになります。
4年後には、皆さんが、輝くように成長され、世界に羽ばたいて行かれることを期待しています。
自由な4年間を過ごすといっても、健康に気をつけ、規則正しい生活を送ってください。それが変身に向けての不可欠な前提となるでしょう。
敬和学園大学への入学、おめでとうございます。楽しい、朗らかな学生生活を送ってください。
2011年4月5日
敬和学園大学長 鈴木佳秀