チャペルのひびき

主イエスの癒し

チャペル・アッセンブリ・アワーは、通常の仕方で守ることができませんでしたので、オンラインにて前もって録画したチャペル・アワー(礼拝)のみを視聴していただくことにより、代替させていただきました。チャペル・アワーは、山﨑ハコネ先生(共生社会学科准教授)がご担当くださり、「ヨハネ福音書」に記されたベトサダの池のほとりでの主イエスの癒しのできごとについて説き明かしてくださいました。38年もの長い間、病気で苦しんでいる人に主イエスは近づかれ、尋ねられます。「良くなりたいのか」と。病気の状態の中にあまりにも長く置かれたために、その状態に安住し、希望を持つことさえ忘れてしまったその人の心を見てとられ、敢えてこのように問われたのでしょう。自分の生涯を悲観することなく、希望を抱きつつ生きる人を、神は見捨てることはなさらないことを伝えるために。主イエスは、「起き上がりなさい」との言葉をもって、その人を癒されました。その癒しは、身体的治癒ということのみならず、その後の生涯のすべての歩みに関わる、全人的な癒し。人生の途上にあって、幾たび、倒されようとも、何度も、立ち上がり、歩み直すことを可能とする癒しなのでしょう。主イエスはそのような癒しを与えてくださると共に、生涯にわたって私たちの人生の傍を歩んでくださる方。足がすくみ、前に進むことのできないほどの試練の中にあっては、私たちを担いつつ、運んでくださる方であることを、ハコネ先生は教えてくださいました。(下田尾 治郎)

Ⅰ.チャペル・アッセンブリ・アワー 
説教 「良くなりたいか」 准教授 山﨑ハコネ 先生

<参加学生の感想>
感想1) とても印象に残ったところがありました。それは、人々は、今の生活を変えたいと思っていても、ブレーキをかけてしまっていて、それを何かの理由で仕方ないと言い訳してしまうというところです。確かにそのとおりだな、と感じました。自分のことを考えてみると、そのような経験が多くあるなと実感しました。自分の弱さであり、自分だけでなく、人間の弱さであると分かりました。しかし、聖書には、そのような人をイエスさまが助けてくれる場面があると知りました。立ち止まってしまった人に対してイエスさまが「歩きなさい。」と言うと、その人は新しい道で歩くことができるようになったといいます。このことから、イエスさまは私たちと一緒に歩んでくださり、重みを軽くしてくれる救い主であることが分かります。また、福祉の世界では、困りごとを抱えた人が多くの人と出会い、さまざまな場面で支えてもらうという支援があることを知りました。人々が、自分のことだけでなく、支えあっていくことが本当に大切なんだと感じました。そして、「足跡」という詩から、私たちの人生は救いの道を歩むことができるということを教わり、なんだかほっとした感覚です。これから、自分のことだけでなく、周りを見て行動していきたいと思います。
感想2) 興味深い内容でした。”ベトザタ”という”癒しの家”という意味の場所があり、そこの水を動かして池に入ることで病気が治ります。しかし、38年間病気に苦しんでいる人はずっとそれができずにいて、倒れていました。余計に心配させたり、今後の人生を一人で生きていけるのか不安で、今の生活を変える勇気がなかったのかもしれません。しかし、イエスの言葉によって立ち上がり歩き回り始めました。この場面がとても印象に残っています。人生には、これからも困難なことがたくさんあると思います。時には、病気を患ったりして弱気になってしまうことがあります。そんな時に、そばに寄り添ってあげられるような人になりたいと、今回のお話を聞いて強く思いました。また、困難なことがあっても勇気を持って行動したいです。
感想3) 病んでいるということは、裏を返せば一種のモラトリアム的な状態であるとする発想は今までなかったため、目から鱗が落ちた。病の人を癒すということは、モラトリアムから脱したその人が、その後自立して社会生活を送るための手助けまですることなのではと思った。一見厳しいようだが、「人に尽くす」という心がなければできないことだ。聖書には現代にも通ずるさまざまな学びが詰まっているのだと、改めて感じ入った。