学長室だより

二つの平和論 (2015.7.24 C.A.H)

「すべて剣をもって立つ者は、剣によって滅びる」(マタイ26:52)

先週木曜日の7月16日に、衆議院の本会議では日本の戦後70年の平和主義の方針を大転換させ、憲法違反の可能性が高い安全保障11法案が可決されました。これを巡る議論が巻き起こっています。だが、翌日には東京オリンピックの主会場となる国立競技場の建設案を白紙撤回させて、関心を安保法案から国立競技場建て替えに向けさせて内閣の支持率を保とうとしています。そこで今日は「平和」とは何かを考えてみたいと思います。

20150724チャペル・アッセンブリ・アワー1

 

「平和」とは一体どういう状態を言うのでしょうか。「平和」とは一般的に「戦争や争いがない状態」と考えられています。つまり「平和」の「反対」は「戦争」であり「戦争」の反対は「平和」であるという考えです。
しかし、平和学の創始者のノルウェー人のヨーハン・ガルトゥングはそう考えませんでした。「平和」の反対は「暴力」と考えたのです。しかも「暴力」には二種類あるのです。目に見える「直接的暴力」と目に見えない「構造的暴力」です。目に見えない「構造的暴力」とは何でしょうか。「差別・貧困・飢餓などの人間の生活を脅かす社会構造」を「構造的暴力」と呼ぶのです。すなわち、「構造的暴力」とは「人権が守られ、社会正義が実現している状態」とは正反対の状態を指すのです。
「暴力」に「直接的暴力」と「構造的暴力」の二種類があるのと対応して、「平和」にも二つの面があるのです。一つは「戦争や直接的な暴力が存在しない」という否定形で表現されるネガティブな「消極的平和論」です。もう一つは「人権が守られ社会正義が実現している」という肯定形で表現されるポジティブな「積極的平和論」です。
ここで間違ってはいけないのは、安倍首相が使っている「積極的平和論」という言葉です。言葉は同じですが、意味内容は全く正反対です。安倍首相が言っている「積極的平和論」とは台頭する中国や北朝鮮の軍事力に対して、「集団的自衛権」を用いてアメリカと連携して牽制することを意味しているのです。それは「軍事力」という「直接的暴力」を用いるので、ガルトゥングによれば「積極的平和論」ではなく「消極的平和論」なのです。
それでは「積極的平和論」とは何なのでしょうか。わかりやすくするために日本国憲法を用いて説明します。憲法第9条の「戦争放棄」は「戦争や直接的暴力がない状態」という「消極的平和論」を端的に表しています。それに対して「全ての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という憲法第25条と「国民はすべての基本的人権の享有を妨げられない」という憲法第11条は「人権が守られ社会正義が実現している」という「積極的平和論」を表しているのです。
実は、以上述べてきた「消極的平和論」と「積極的平和論」という「平和」の持つ二つの面は、旧約聖書のヘブライ語で「平和」を意味する「シャーローム」という言葉に遡ります。「平和」とはこのような二つの面が相まって成り立つのです。
東京オリンピックの会場となる新国立競技場の白紙撤回の記事が一面を飾った7月18日の朝日新聞オピニオン欄に、ハーバード大学の歴史学者入江昭氏が「戦後70年と日本:人権の尊重される国になったか」と題したコラムで次のように記し、重い問いを投げかけています。「人権の原則に基づく平和。これこそ現代社会が求めるものだ。日本はその任務に耐えられるだろうか。戦前・戦時の国内では人権は軽視され、時には無視されていた。では戦後の日本でそのようなことはなかっただろうか。」現在の沖縄や福島を思うと「戦後の日本ではそのようなことはなかっただろうか」と問わずにはおられません。
イエスは既に2000年前に「すべて剣をもって立つ者は、剣によって滅びる」と警告しています。この警告に耳を傾けようではありませんか。

♪Dona nobis pacem, pacem. Dona nobis pacem. ……♪(山田 耕太)