学長室だより

2009年度入学式式辞(鈴木佳秀学長)

2009年度入学式での鈴木佳秀学長の式辞

2009年度入学式での鈴木佳秀学長の式辞

皆さん、ご入学おめでとうございます。入学された学生諸君と保護者のかたがたに対し、学長として式辞を述べさせていただきます。
皆さまにこのように呼びかけているわたくしも、この大学との関わりから言えば、実は新入生なのです。新井前学長の退任により、この4月に、新たに学長に就任しました鈴木です。
これから皆さんと一緒に、わたくしもまた、まだ見えざる未来に向けて旅立つことになります。わたくしと同じように、皆さんも恐らく緊張を覚えておられるのではないでしょうか。結果の分かっているゲームを前にした時のような気楽さは、わたくしたちにはありません。未知なる未来に向かって、一歩踏み出そうとしているからです。

入学式に臨み、皆さんに式辞を送るにあたって、わたくしが専門としている旧約聖書の中から、ひとりの人物の話を、ここで取り上げたいと思っております。それは、アブラハムというイスラエル民族の父、つまりユダヤ人たちの父祖とされている人物です。
新約聖書にアブラハムを紹介している一文があります。それを口語訳聖書から引用してみたいと思います。アブラハムとは、遊牧民の群れを率いていたひとりの父、家父長でした。

ヘブル人への手紙
11章1節 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
2節 昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。
8節 信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの 召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。

この聖書の箇所を引用しましたのは、アブラハムという人物が、神の声を聞き、重大な決断を下して、父の家や仲間たちから離れ、神が示された約束の地を目指した、という事実に目を向けたいからです。
ティグリス、ユーフラテス川が流れている古代メソポタミアは、今のイラクにあたりますが、現在のような砂漠地帯ではなく、当時はステップ式気候で、今の東アフリカのような草原地帯でした。そこにはライオンや豹などの猛獣がいたのです。
ですから、羊や山羊、駱駝を連れて、牧草地を求め、季節移動を繰り返していた遊牧民は、家畜を狙う野獣と戦い、常に警戒を怠ることなく、群れを護る必要がありました。子供たちも、小さい頃から羊や山羊の飼育だけでなく、驢馬に乗る方法や、駱駝の扱いなどを学ぶ他に、母親からはパンの焼き方や、調理の方法、水の汲み方、羊や山羊の乳からどうやってチーズやヨーグルト、バターを作るか、衣服の作り方などを学んだのです。父親からは、テントの製作や、武器の製作などの他に、実は、槍や弓矢をもって野獣と戦う訓練を受けて育ったのです。
遊牧民の生活は水や牧草地に依存しています。オアシスのような水源に行き当たればいいのですが、宿営地を定める判断を間違えると大変でした。家父長が宿営地を決める責任を負っていましたが、もし彼が愚かにも判断を間違えると、水や牧草に事欠き、家畜がばたばたと倒れる危険があります。そうなると、家畜を連れた遊牧民の群れは、連鎖反応で、人間も含めて数日のうちに全滅してしまいます。ですから、遊牧民は決められたルートを通り、毎年決まっている牧草地を目指し、1年から数年をかけて、決まった場所を行きめぐるのが常識でした。
神がアブラハムに与えた呼びかけ、召し出して命じるという意味で、これを召命と言いますが、その召命の内容は、季節移動のルートから外れて、神が示す、全く未知の土地を目指しなさいというものでした。子供がなかったアブラハムに、神は子孫を約束し、土地を与えると語ったのです。それは、アブラハムが人々の祝福の基となるためであるというのです。神の言葉とはいえ、常識外れの無謀な旅になるのは明らかでした。しかし彼は、神が直接彼に語られたが故に、それに従ったのです。アブラハムは、自分に語りかけられた神の約束を信じたのです。そこに彼の信仰がありました。
新約聖書は「彼は行き先を知らないで出て行った」と簡潔な言葉で、アブラハムの信仰について証言しています。まさに「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」というヘブル人への手紙11章の冒頭にある言葉そのままに、彼は約束の地に向かったのです。
もし彼の信仰が抽象的で、思想やイデオロギーを信じるという程度のものであれば、神の言葉とはいえ、行き先を知らないで出て行くことは、ひとに死ねと命じているようなもので、約束の内容にも懐疑的になったはずです。子供が与えられなかったアブラハムにとって、自分が聞いた言葉は、何かの間違いであろうと考えるのが普通です。信仰がなければ、このような決断はできなかったでしょう。
その信仰的な決断が、歴史を形作ったのです。彼は、ユダヤ教徒の父となり、キリスト教徒にとっては信仰の父であり、同時に彼はイスラム教徒の父でもあります。これら3つの世界宗教は、実は同じ神を神として崇拝しているだけでなく、共通のアブラハムという父祖を持っているのです。アブラハムから生まれた2人の息子、イシマエルとイサクがこれらの民族や宗教においては、アブラハムに与えられた神からの重要な約束の継承者とされているからです。彼が神としてではなく、父として慕われていることは、歴史的な信仰の奇跡であると言えます。しかしその一方で、土地の約束をめぐって、現在、パレスチナで争っているのは、よくご承知のことと思います。それは、アブラハムに与えられた祝福を誤解しているとしか言いようがありません。
すこし長くアブラハムの話を引用しましたが、わたくしたちに求められているのも、同じような状況なのです。もちろんわたくしたちは遊牧民ではありません。しかし考えようによっては、神の言葉でなく、会社の命令という形で、季節移動のような営業活動を求められ、転勤を繰り返すことになるかもしれません。もしもそうだとすると、わたくしたちにも、遊牧民と似たような生活を送る可能性があるのです。わたくしたちもまた、アブラハムのように、未知の世界に向かって、行き先を知らずに出て行くことになるからです。
未来は、どこに行き着くのか、わたくしたちにはわかっていません。ですから、アブラハムのような勇気、知恵に裏付けられた、決断力が求められているのかもしれません。信仰が与えられていることは望ましいのですが、しかし、道を求める者にも希望があるはずです。わたくしたちが自覚しようとしまいと、わたくしたちが目指す大地、わたくしたちの未来は、神の御手の中にあるからです。
皆さまがこの場所にあり、一同に会し、入学式という式典に参加していることは、偶然という言葉で片付けることは決してできません。古来、日本人は、これを「縁」という言葉で言い表してきました。聖書のことばを借りるならば、それは「神の摂理」なのです。わたくしはそのように信じております。
神がどのような未来を皆さんに約束されているか、それは誰にも分かりません。しかしながら、分からないが故に、それを信じないのであれば、何も生まれません。未来に向かって一歩踏み出すことに大きな意味があり、前に進むからこそ、新しい出会いや、神の奇跡に遭遇するという幸運が生まれるのではないでしょうか。
何の準備もなしに、人生の旅に出なさいと勧めているのではありません。準備のための4年間を、この大学で過ごしていただきたいのです。行き先が草原か砂漠か、山岳地か農耕地か、それはまだ分かっていません。本学が教養教育を重視しているのは、これから様々な分野で生きていく皆さんが、身につけておくべき知識、生きる上で必要な知恵を学んで欲しいのです。それは、ものを考える時の「カタ」であり、生きる上での実技的な「カタ」、コミュニケーションの「カタ」などを身につけることでもあります。
歌舞伎役者は「カタ」を学び、舞台に上るのです。大相撲の力士も相撲の「カタ」を学んで、強くなるのです。スポーツの訓練は、そのほとんどが「カタ」を修得することから始まります。
同時に、スポーツ以外の分野でも、それは、ひとがひととして生きていく上で、身につけるべき必要な「カタ」、そこには挨拶の仕方などを含めた、いわゆる本来の躾も含まれます。単なる知識では終わりません。わたくしの言葉で表現するならば、それは生きた信仰と言えるものです。

最後に、今日、入学式に列席された学生諸君のために、皆さんに約束されている輝かしい未来に向けて主なる神が導いてくださるように祈りつつ、わたくしの式辞とさせていただきます。  

2009年4月3日
敬和学園大学長 鈴木佳秀