学長室だより

2009年度卒業式式辞(鈴木佳秀学長)

2009年度卒業式での鈴木佳秀学長の式辞

2009年度卒業式での鈴木佳秀学長の式辞

卒業式に臨んだ学生諸君の皆さん、おめでとうございます。この卒業式に出席しているあなたがたのみならず、本学に入学した時以来、ずっとこの日を待ち望んでおられた、ご家族や保護者の方々に対しても、学長としてお祝いの言葉を、述べさせていただきます。

卒業する皆さんは、4年前の入学式のことを覚えておられるでしょうか。その時の自分と、卒業式に臨んでいる今の自分と比べて、どれだけ変わったかを認識できるでしょうか。想像できないのではないでしょうか。
人間は、他人のなりふりのことはよく分かりますし、人のことであれば、その人がやっていることや語っていることなどを、批判的に客観的見ることができると考えています。
しかし、どのような立場にいる人でも、政治家はもとより、行政職の方や市役所の職員の方、学者でも教師でも、企業の責任者でも社員でも、自分を客観的に知っていると言える人はほとんどいません。
古代ギリシアのデルフォイにあるアポロン神殿の入り口に、『汝自身を知れ』という碑文が刻まれていたことは有名で、パウサニアスやソクラテスがそれに言及していることはよく知られています。
自分自身を知ることができていれば、それはひとりの自律した人格であることの証明になります。
哲学的な思索のスローガンとして理解されている言葉ですが、『自分を知る』ということは、人生の目標そのものと言えるほど、偉大なことなのです。
それを実現するには、それなりの努力が必要です。まず自分探しをするということから始めなければなりません。それは、自分との出会いと言い換えることができます。実はそこから真の歩みが始まります。
自分との出会いは、自分に与えられている賜物、つまり潜在能力に気付くことですが、それは自分以外の他者との出会いを通して実現できることです。しかし重要なことは、神との出会いによってこそ、自分と出会うことができるということです。その時、人は自分が生かされていることを知るからです。その手前で求めることをやめてしまう人もいますが、真理を求める人であれば、自分は何のために生きているのかを考え始めるからです。
自分を知るには、やはり人々の助けが必要です。また同じ志を持ち、互いに切磋琢磨する仲間がいることで、その境地に一歩でも近づくことができるというものです。自分自身を知るということは、簡単に手に入れることのできる真理ではないからです。
何より必要なのは、『自分を知る』ために、自ら求めて生きることです。そして、そのように求めている自分を知っていてくださる神、自分を真理に導いてくださる神に信頼することです。キリスト教徒でなくてもそれはできることであり、許されているのです。
神の前に生かされている自分を理解することが、自分自身を知るもっとも着実な道なのです。
このようなことを申し上げるのは、今日の卒業式に臨んでいる学生諸君が、例外なく、ひとまわりもふたまわりも成長し、人間の器として、見違えるように大きく変貌した、という事実があるからです。まだ皆さんは、人生の遥かな旅路の途上にありますが、そうであるにせよ、それは、次の大切な一歩を踏み出す準備ができていることを意味します。
敬和学園大学での教育は、キリスト教主義に基づく、リベラル・アーツ教育です。共生の理念を掲げ、他者への愛や、神に仕え、隣人に仕えることを教育の根幹としてきました。ここで受けた教育は、これから皆さんが遣わされる社会で、大きな力を発揮するはずです。それは自分探しから始まり、自分を知る旅路、世界を知る旅路に寄り添い、皆さんを側面から支えるものだからです。
本学のリベラル・アーツ教育の精神は、他者に対する配慮や、細かな心遣いを行うことができるということを目標にしています。誰かのために生きることが、自分を知ることに至る道だからです。
企業や事業体が求めているのは、他者に配慮のできる人材なのです。きちんと挨拶をすることができるというのも、相手に対する心遣いなのです。
企業の担当者は、人に配慮ができ、細かな心遣いができる、そうした心の教育を受けてきた者を求めているのです。
専門学部で習得する知識について、どれくらい企業の人々は期待しているでしょうか。わたくしは、かつて大学院を設置するため、新潟市内の企業のトップの方々に、アンケートの目的で、どのような人材を求めていますか、と質問をしたことがあります。
彼らの答えは明確でした。専門の授業で習得できるものについては、現場とは関係のない理論にすぎない場合が多いので、彼らが学んだことについてはほとんど期待していないという、驚くべき内容でした。
彼らが求めていたのは、幅広い教養を身につけていることであり、挨拶がきちんとできるとか、社内の人と一緒に仕事ができるという、バランスが取れた教養、特に常識を身につけていることでした。
これらのことは、実はリベラル・アーツ教育が目指していることなのです。
ですから、皆さんが受けてきた敬和学園大学での教育に、自信を持っていただきたい。皆さんが変身を遂げた背景にあるのは、そのような教育を通して、知らず知らずのうちに身についた考え方や、生きる姿勢があり、それによる精神的な成長があるからです。
学園を巣立っていく皆さんに、はなむけの言葉を贈りたいと思います。それは新約聖書ルカによる福音書の中にある、イエスが語った言葉です。

ルカによる福音書16章10節
ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。

この聖書の箇所を引用しましたのは、これから社会に出て行き、社会人として歩み始める皆さんに、ぜひ、心にとめていただきたい言葉だからです。
ごく小さなことに忠実であるということは、どのように些細なことでも、またちっぽけに見える仕事、あるいはどうでもいいように見える業務であっても、それを忠実に、骨身を惜しまないで、丁寧に仕上げることの大切さを語っているのです。
人の目に小さいことと思えるような仕事を、責任をもって忠実に仕上げることができる人は、信頼に値するからです。またそのような姿勢は、必ず周囲の人に見られているのです。
あなたに、大きな責任を任せられるのかどうかを、上司や周囲の人は見ているのです。小さなことに忠実であるかどうかが、大きな仕事を任せられるかどうかに、関わっているからです。
逆の場合は、大きな責任を任せることはできないとみなされ、職場に一緒にいることすら、忘れられてしてしまう可能性があります。自分を知っていることの大切さは、小さなことに忠実であるという姿勢を生み出します。
これは、どのような職場でも、どのような仕事場でも共通して妥当する、普遍的な真理です。
イエスが語ったこの言葉は、本学が掲げている理念と一致しているものです。イエスが語ったこの言葉の意味や、その言葉の価値が分かるほど、皆さんは大きく成長されたとわたくしは確信しています。
その意味で、わたくしは、今日、ご来賓いただいた方々共に、確信を持って、皆さんを社会に送り出したいと思います。神の祝福が皆さんの上に豊かにありますように。

今日、卒業式に列席された学生諸君のために、皆さんに約束されている輝かしい未来に向けて、主なる神が導いてくださるように祈りつつ、わたくしの式辞とさせていただきます。

2010年3月16日
敬和学園大学長 鈴木佳秀