学長室だより

敬和学園の過去・現在・将来(高校大学合同研修会)

皆さん、おはようございます。ただ今讃美した讃美歌第二編142番の「若きわれらは」は中世ヨーロッパの学生歌として知られている”Gaudeamus Igitur” (それゆえ、楽しもうではないか)です。オリジナルの歌詞は、讃美歌とはかなり異なります。1節「諸君、大いに楽しもうではないか。私たちが若いうちに。すばらしい青春が過ぎた後に、苦難に満ちた老後が過ぎた後に、私たちはこの大地に帰るのだから。」2節「私たちの人生は短い。短くて限られている。死はすぐにでも訪れる。残酷にも私たちはこの世から去らねばならない。誰も逃れられない。」4節「私たちの大学、いつまでも。私たちの先生、いつまでも。私たち学生、いつまでも。すべてのどんな人にも、常に栄えあれ!」(3、5~10節省略)。  

大学は12世紀に修道院のリベラルアーツ教育(「言葉の学」3科:文法学・修辞学・論理学と「数学」4科:代数学・幾何学・天文学・音楽理論の自由7科)の上に専門学部が開設されることから始まりました。ボローニヤでは法学部、サレルノでは医学部、パリでは神学部が設置されました。やがてすべての大学がリベラルアーツ学部と法学部・医学部・神学部の4学部体制になりました。それは、カントの時代の18世紀まで変わりありませんでした。当時の大学はキャンパスがなく、ハイデルベルクの旧市街にその面影が残っていますが、商店街の中に教室が散在していました。町(タウン)と大学(ガウン)は、学生がしばしば問題を起こして衝突し、街と大学は角を突きあうような関係にありました。

宗教改革とほぼ同時期に天文学や物理学などから科学革命が起こり自然科学系の学問が発達し、18世紀に市民革命が起きて市民社会が成立し、社会科学系の学問が発足しました。19世紀には科学革命を実用化する産業革命が起こり、理工系の学問が発達し、それに伴い大学の中に最初に研究所を取り込んだベルリン大学が19世紀に出現して、大学の使命は教育と研究の二本立てとなりました。やがて20世紀には人類の知的遺産を伝える教育中心の大学と科学研究とその応用実用化を中心にした研究中心の大学とに次第に分かれていきました。しかし、大学教育の根幹には、中世の自由7科から発展した「哲・史・文」すなわち哲学・歴史学。文学を中心にした、「人文学」(humanities)があることには変わりはありません。現在は、情報革命・デジタル革命が進行中です。

さて、日本にリベラルアーツ教育が入ってきたのは、キリシタン時代を除くと明治期以後です。それは開港5港(函館・横浜・神戸・長崎・新潟)に隣接した外国人居留地ならびにその隣接地と後背地の学校教育から始まりました(新潟には外国人が少ないために居留地が造られませんでした)。敬和学園の精神的な前身は、パームの医療宣教を受けて教育宣教に転換したアメリカンボードという宣教会の支援により、1887(明治20)年に開校した新潟女学校と北越学館です。この二校は、鹿鳴館に象徴される欧化主義から教育勅語と大日本国憲法に象徴される国粋主義への大きな時代転換の荒波に乗り切れずにわずか6年で閉校を余儀なくされました。

しかし、戦後の教育基本法と平和憲法の下で、北越学館や新潟女学校を復活させたいという新潟の沢田義方や新発田の井伊誠一に代表される市民の願いやモス宣教師の青少年教育への働きかけが、新潟朝祷会の祈りの中でビジョンとして共有されて、敬和学園が発足しました。現在キリスト教学校教育同盟に属するプロテスタントの学校は102法人あります。明治時代のキリスト教学校60校余りの中で、三分の一が欧化主義から国粋主義の大波の中で消えていきました。その荒波に耐えて生き残った神戸女学院や明治学院などでもその時期に生徒数は半減しました。キリスト教学校教育同盟の中で、戦後に再びの平和が訪れた時代にかつてのキリスト教学校の精神を復活させたのは敬和学園のみです。

今年は北越学館の校主(理事長)であった加藤勝弥没後100周年の年にあたり、10月16日に村上で鈴木孝二氏(敬和学園高校元教員・基督教独立学園元校長)が講演し、鈴木孝二氏に加藤勝弥孫の加藤祐三氏(横浜市立大学元学長・都留文科大学元学長)と加藤亨氏(旧山北町・村上市郷土歴史研究会会長)と私が加わってシンポジウムが開催されました。敬和学園大学はパームの医療宣教とアメリカンボードの教育宣教を忘れないために(日本基督教団新潟地区の諸教会はこれらの二つによって発足)、体育館はパーム館と名づけられ、教室棟には北越学館に関わった22人の宣教師の中で最初から最後まで関わったただ一人の宣教師ニューエルの名前が付いた建物があります。

敬和学園は今から55年前の1968年に太田俊雄を初代校長として誕生しました。法人誕生の際には日本基督教団総会レベルで議決され、明治学院が親代わりの受け皿になったので、北村徳太郎初代理事長と武藤富男第三代理事長は明治学院理事長を経て本学園の理事長となり、大村勇第二代理事長と後宮俊夫第五代理事長は日本基督教団総会議長を経て本学園の理事長となったのでした。また、敬和学園の誕生は具体的には日本基督教団新潟地区であったので、準備委員長の高橋勝新潟教会牧師が第三代理事長となりました。

太田俊雄初代校長は、当初から高校だけではない学園構想を抱いていたので、キリスト教倫理で最も大切な箇所であり、モーセの十戒を愛の精神で解釈したイエスの思想「神を愛し、隣人を愛する」(マルコ福音書12:28-34)を日本的な文脈で解釈し直して「敬和」と名づけ、高校だけで終わらない学園構想を抱いていたのでその後に「学園」を付けたのです。大学の開学は、大学を開設したいという敬和学園の意向と大学を設置したいという地元の新発田市と聖籠町の意向が合致し、それを君健男新潟県知事も後押しして、高校開校から23年後の1991年に大学の開学にいたって、現在の形になったのです。高校は開校55年の歩みの中で、9,000人余りの卒業生を排出し、大学は32年の歩みの中で4,700人余りの卒業生を社会に送り出しています。高校は大学設立以前と以後の大きく二つの時代に分けられますが、高校大学の現在にまで至る詳しい歩みは、記念誌をご覧ください(『敬和学園高校創立10周年記念誌』『同20周年記念誌』『同30周年記念誌』『同40周年記念誌』『敬和学園大学創立20周年記念誌』『法人・高校創立50周年、大学創立25周年記念誌』、参照)。

敬和学園の記念誌

敬和学園の記念誌

 

今から22年前の2000年のことです。その当時大学は英語英米文学科(入学定員100人)と国際文化学科(入学定員100人)の2学科体制(収容定員800人)でしたが、一つの学科の入学定員が初めて若干名でしたが割れました。そこで大学は、第一に2004年度から両学科の定員を20人ずつ削減し80人にして、新しいコンセプトの社会福祉の共生社会学科(入学定員40人)を立ち上げ、英語英米文学科を英語文化コミュニケーション学科に名称も内容も変えました。第二に高校大学の連携を強めて、高校と大学が共通の理念の下で「人権・共生・平和」にアクセントを置いた教育をすることにしました。

大学は、その後、回復傾向が見られましたがそれでも定員割れが続くので、2015年度から英語文化コミュニケーション学科の入学定員を80人から60人に下げ、収容定員を800人から720人に下げ、3学科9コース制度に学科横断的な7ディプロマコースを加えて、小さな総合大学化し、その上で大学キャンパス内の授業ばかりでなく、地域社会での活動も単位化する街中キャンパス化を推し進めました。その象徴的な建物として新発田駅前の新しい図書館イクネスしばたと隣接する民間棟に、1F観光案内所とコンビニ、2F内科・小児科の医療モール、3F男子寮、4F女子寮、という学生寮を開設しました。これらに東京23区内の大規模大学の定員厳格化も相まって、収容定員は2017年の601人を底にして、2018年以後は、ゆっくりとV字回復し、2021年には2003年以来18年ぶりに収容定員を回復しました。また毎年のように数千万円から1億円を超す大幅な赤字決算でしたが、久しぶりに黒字決算となりました。

しかし、大学は現在決して油断できない状況です。今後に向けて、現在大きな改革を検討し始めています。他方、高校の方も2020年度までは入学定員200人と収容定員600人を上回っていましたが、2021年度から入学定員も収容定員も両方とも定員を割り、今後もその傾向が続いていく厳しい現状があります。その上、ウクライナでの戦争等による異常な物価高の波に襲われています。以上がかいつまんで見た現状です。それでは今後どのように歩みを進めていくべきでしょうか。

第一に、20年前の高校と大学の合意に立ち返って、キリスト教理念に下で高校も大学も「人権・共生・平和」にアクセントを置いた教育を地道に続けていくことです。これはキリスト教的世界観と人間観に裏づけられて成り立つものです。すなわち、この世界が神によって創造された世界で、人間は一人ひとりが「神の似姿」(創世記2章17節)であり、等しく尊い存在であると同時に神に背を向けやすい存在である、ということを自覚した世界観と人間観です。このような世界観と人間観による文化活動によって、長い目で見て日本の文化的土壌に新しい文化を生み出していくことを意味します。
 
第二に、先進国は人口が減少し発展途上国は人口が増大する中で、日本は世界に稀に見るスピードで少子高齢社会に突入しています。また、日本は三大都市圏の人口と三大都市圏以外の地方圏の人口が現在ほぼ半々で拮抗していますが、地方圏にある高校・大学は、地域社会にとってなくてはならない存在になりきらないとますます存続できなくなってきます。国際理解と地域貢献の両方の視野を失わないようにしなければなりませんが。冒頭で讃美歌第二編「若きわれらは」は中世の学生歌だと申しました。その背景には「街」(タウン)と「大学」(ガウン)が角を突くような関係にあったと申しました。しかし、とりわけ1990年代以後の人口減少高齢化社会の地方圏の高校・大学は、地域社会とウィン・ウィンな関係を築いていかなければ生き残れないのです。そこで、大学では今から14年前の2008年に最初に中長期計画を立てた時には、キリスト教教育・国際理解教育・地域貢献教育の三本柱の中で、“Think globally, and act locally” という言葉の中で、国際理解教育もないがしろせずに地域貢献教育を第一に据えたのです。今後も地域社会のさまざまな支援を受けながら地域社会にとってなくてはならない存在となっていくことにまい進し続けなくてはなりません。

第三に、第一の「人権・共生・平和」の理念の共有と第二の地域貢献の実践を前提にしつつですが、現在進めている高大連携をさらに大胆に推し進めていくことです。県内には公立私立高校が98校あり、大学があるのは敬和の他に1、2校です。その中で高大の関係が敬和ほどうまくいっているところはありません。キリスト教学校同盟103法人の中に55大学があり、そのほとんどに同一法人の高校があります。私は1998年にキリスト教学校教育同盟で初めて発題講演をして以来、敬和学園ほど高校と大学の関係がよいところはないと感じています。そこで現在進めている高大連携をさらに押し進め、中長期的視野で高大一貫のカリキュラムを段階的に開発をして、文字どおり高大連携の7年間一貫教育を推し進めていくことです。そのためには、高校は文部科学省が定めたカリキュラムを施さなければならない点や高校と大学のキャンパスが離れている点などの課題がありますが、それらを克服していく必要があります。すでにいくつかの先進的な先例があり、それを参考にしつつ、推し進めることができます。

最後に、中世の大学の始まり(1088年ボローニャ大学創立)以来変わることなく継承されてきたキリスト教リベラルアーツ教育のモットーは、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネ福音書8章32節)です。この「真理」とは、教会では「神の知恵」そのものである「イエス・キリスト」を指しますが、大学では「諸科学が追及する多面的な真理の根幹にある真理」を指します。神が創造された世界を前提にするキリスト教的世界観では、両者は同じ一つのものと考えられています。

現在、文部科学省はアメリカの先例に倣って日本でも、情報革命・デジタル革命の時代にふさわしい教育として、当初は「STEM(Science、Technology, Engineering, Mathematics)教育という看板を一時掲げた直後にA(Liberal Arts)を加えてSTEAM教育と言い直して推し進めることにしました。ここに象徴されているように、情報革命・デジタル革命の時代にあっても、「人間性」(humanity)を第一にする「人文学」(humanities)を根幹に据えたリベラルアーツ教育こそ、バランスを失うことがない重石のように、最も必要とされているのです。それでは短く祈りましょう。(山田 耕太)