学長室だより

敬和学園大学での32年間の歩み

教職員送別会での集合写真

教職員送別会での集合写真


 

無から有を創り出す

 私が開学2年前に見た最初の敬和学園大学は、真っさらな何もない更地だった。次に見た開学1年数か月前は、校舎建設の真最中で建物に入ると真っ暗な中でヘルメットにライトをつけた大勢の作業員が黙々と働いていた。それぞれ就任予定者のクリスマス顔合わせ会の折だった。
 1991年の第1回入学式は、316人の新入生を迎えてS31教室で行われた。新入生代表近伸之氏(現豊栄キリスト教会牧師)があいさつで引用した太田俊雄初代高校校長の開校の祈り「もし敬和学園の教育が神の聖名を汚し、神の聖旨に背いて右や左に曲がるようなことがあったら、どうか神の御名のために学園をつぶしてください」が心に残った。開学式式典後にニュートンのリンゴの苗木が植えられ、翌秋に新発田商工会青年部によって桜の苗木が植えられた。
 校舎は栄光館と尋真館、新発田館と聖籠館、オレンジホールのみであった。食堂が狭かったので、1993年3月にオレンジホール・アネックス(現ラーニングコモンズ)が増築され、中教室と演習室を増やし図書館を広くするために、1997年にニューエル館が増築され、またパーム館(体育館)が新築された。それまで体育は新発田市立第一中学校の古い体育館を使用していた。 
 北垣宗治初代学長(1991-2002年度)は、しばしば学生たちに「敬和が私をつくった。私が敬和をつくった。」と言える人になるようにと学生たちを激励した。この時代は今から思えば、何もない時代であったが、文字どおり「無から有を創り出す」時代で、大変楽しい時であった。
 北垣学長は「大学のあるまちづくり」のために新発田市・聖籠町の市長・町長、市・町議会関係者、商工会関係者らをノースウェスタン大学のあるアイオワ州オレンジ市その他の大学町に案内した。その参加者たちから本学を支援するオレンジ会が発足した。
 1995年から、大学設置基準大綱化に合わせて一般教育の教員組織を解体して、国際文化学科と英語英米文学科に分属させた。また、「読む・書く・聴く・話す」のジャンル別・段階別の英語教育プログラム(KEEP)を編成し、一般教育を群別したカリキュラム改革を行った。1995年1月に阪神淡路大震災があり、有志が初めて被災地にボランティア活動に出かけた。国際ソロプチミスト新潟から支援のためΣ学生基金を頂いた。それは現在まで継続している。
 1994・95年度に最初の自己点検評価報告書を作成し、1996年から敬和カレッジブックレットを発行し、1998年からチャペルニュース『プニューマ』を発行し始めた。また、2000年には国連大使の小和田恆氏とドナルド・キーン氏による大学創立10周年記念特別講演会が行われた。

3学科体制へ

 2000年前後から少子化に向かうばかりでなく、新潟市内や周辺で大学が相次いで新設され、短大が大学に昇格して、1999年から一つの学科の入学定員が割れ始め、翌年にはもう一つの学科の入学定員も割れ、その翌年には収容定員が割れ始めた。そこで、第一に教育理念を明確にするために、学則第一条に基づいた行動規範としてミッション・ステートメントを作成した。第二に入試制度を改革してAO入試と特待生制度を導入した。第三に共同研究を盛んにするために2001年に人文社会科学研究所を開設した。第四に2002年に大学基準協会の加盟判定を受けて、2003年から大学基準協会の正会員となった。第五に将来構想委員会を立ち上げて、2004年度から従来の2学科から改組転換して国際文化学科(入学定員100人から80人に削減)と英語文化コミュニケーション学科(名称変更、入学定員100人から80人に削減)に共生社会学科(入学定員40人)を新設して3学科体制に変更した。
 新井明第二代学長(2003-2008年度)が就任すると「木を育てるように人を育てる」をモットーにし、新入生が木の成長を見ながら学ぶために入学式の直後にユリノキを植える植樹式を時計台の前で始めた。また、新井学長の時代から校門近くの桜が見事に開花し、毎年春先にはお花見をするようになった。また、新井学長は教員のサバティカル制度を導入し、教職協働を唱え学長選挙では教職員は対等に票を持つ制度にした。中国台湾の大学間交流にも積極的で、房文慧先生と私も同行して協定書調印式にたびたび出かけた。
 2004年7月の三条市水害、同年10月の中越地震の際にも、学生教職員が一丸となって被災地支援に出かけた。私も三条では学生と共に家の床下の泥出しをし、長岡では仮設住宅で洗濯機の設置などを学生と一緒に手伝った。
 2005年の創立15周年には3つの記念講演会を執り行い、記念絵葉集を出し、『写真でつづる敬和学園大学15年のあゆみ』と卒業生名簿を出版した。また、まちなかの空き店舗を改修して新発田学研究センターを開設し、2008年には駅前通りにまちカフェをオープンした。
 2008年に大学基準協会の審査で2003年に引き続いて適合の判定を受けた。また大学所有地にボランティア・実習施設を兼ねたグループホーム富塚・のぞみの里を開所した。

まちなかキャンパス化へ

 鈴木佳秀第三代学長時代(2009-2014年度)には「誰かのために」をモットーにして奉仕の精神を涵養することに力を入れた。2008年に本学で講演して指導を受けた私学事業団私学情報センター長の西井泰彦レポートに基づいて、2009年度から3年の短期目標、6年の中期目標、12年の長期目標を立て、毎年その達成度を測る中長期計画(ロードマップ)達成度評価を始めた。長期目標は、本学のリベラルアーツ教育を支える3つの柱(キリスト教教育・国際理解教育・地域貢献教育)の中で、地域貢献に最も力を入れていく方針である。
 2011年3月には東日本大震災が起こり、多くの被災者の方々が新発田市や聖籠町にも避難してきて、ボランティアセンターを中心にして学生教職員が一体となってさまざまな形でのボランティア活動が展開されていった。また、2010年10月に創立20周年講演が催され、そこで北島万紀子作詞・大中恩作曲の敬和学園大学校歌が披露され、敬和学園大学創立20周年記念誌も発行された。
 また、2008年度から阿賀北地方を題材にし、新たな文学の書き手を発掘する文学による地域貢献である「阿賀北ロマン賞」を地域社会の自治体や企業の協賛をいただきながら始めて2020年まで12回まで会を重ねることができた。その後継として2021年度から現在まで阿賀北ノベルジャムが毎年開催されている。

実践するリベラルアーツ

 私は長く教務部長や共生社会学科長を務めた後で、新井学長と鈴木学長の12年間は学長補佐・副学長として学長を支え、第四代学長(2015-2022年度)として2期8年間務めてきた。本学のビジョンを考えると「まちと大学」が互いにウィンウィンの関係を持ちつつ、大学のみでなく、まちなかもキャンパス化していかなければならない。そこで、本学では「地域学入門」も必修科目に加えた。それは学科とコースの壁を越えた「ディプロマ・プログラム」の一つの科目群として、地域社会を理解するための「地域経営プログラム」の中に含まれており、まちなかや周辺の地域社会での実践活動やインターンシップなども単位化する仕組みが整えられている。
 2015年からさまざまな困難を抱えている学生を支援するために学生支援センターを設置し、医務室やカウンセリングルームと連携して学生を支援している。また大学基準協会の3回目の審査に適合した。2016年から新発田駅前の新しいコンセプトの複合施設イクネスしばたとリンクした学生寮向山寮を開設した。2020年度から2022年度までの3年間は、コロナ禍の中でさまざまな活動が制限されてきたが、同時にオンライン授業やオンライン会議など新たな手法も手に入れることができた。2020年10月にコロナ禍でささやかに創立30周年記念式典を行い、式辞を述べた。2021年4月の新入生歓迎学術講演会ではコロナ禍で1年遅れて私の高校時代の同期生の池上彰氏が2011年の敬和祭に引き続いて講演して花を添えてくれた。2022年に大学基準協会の4回目の審査に適合することができた。
 これからの私は一昨年から責任を負わされている日本新約学会会長職に専念して、若手の研究者の育成と、学会として総力を挙げているNTJ新約聖書注解書シリーズ(日本基督教団出版局)の出版の業にも力を入れていく。