学長室だより

自分が携わる仕事は天職なのかどうか

天命を知るということは、容易なことではありません。天職に巡り会うということも、決して簡単なことではありません。家業を継がれた人で、それは生を受けたときから決まっていたことなので、それが天命だったと率直に言われた方もいました。
親とは別の道を歩む若者は大勢います。皆、小舟で大海に漕ぎ出すような気持ちでいるのではないでしょうか。自分に相応しい職業は何なのかと、若者は悩むのです。学校教育の現場で問題にされることはあまりありませんが、助言を与えてくださる恩師に恵まれる人もいます。でも決めるのは自分なのです。
自分が手がけている仕事について、職人さんたちには迷いがほとんど感じられません。彼らにお会いする度にそう感じるのですが、自分自身には迷いはないのかと自問自答することがあります。仕事に迷いがないのは、素晴らしいことだと思います。
ドイツの宗教社会学者でマックス・ヴェーバーという人が、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)という本を書いています。その中で、宗教改革者のルターが聖書をドイツ語に翻訳する際に、「使命としての職業」に相当する言葉をBerufと訳したと指摘しています。それは召命という意味です。神から与えられる天職、天命という意味が込められているのですが、学生時代にこの本を読み、自分には召命と言える職業があるのかと、考えさせられました。(鈴木 佳秀)