学長室だより
「心の内に輝く光」(2016.12.9 C.A.H.)
クリスマス音楽礼拝
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は闇の中に輝いている。闇は光を理解しなかった。…言は肉となって私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは独り子としての栄光であった。」(ヨハネ福音書1:1-5、14)
「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました。」(Ⅱコリント書4:6)
クリスマスは光りの祭りです。アドヴェントという神の子の誕生を待ち望むクリスマスの4週間前から夜になるとクリスマスツリーを点灯します。また、教会の礼拝では最初のアドヴェントの11月最後の日曜日に1本のローソクに火を灯し、2週目、3週目、4週目と次第に火を灯したローソクを1本ずつ増やしていきます。そしてクリスマス・イブのキャンドルサービスでは全員がローソクを灯して礼拝を捧げます。
クリスマスは讃美の祭りでもあります。神の子の誕生を祝う「クリスマス・キャロル」が歌われ、新しいクリスマスの歌が創られて歌われてきました。「キャロル」という言葉は「コーラス」という言葉やその語源の「コロス」というギリシア悲劇の群舞の歌と踊りにまで遡ります。クリスマスでは中世から民謡に基づいた「クリスマス・キャロル」を歌い踊りました。そこで現代に至るまで「キャロル」を歌いながら町中を練り歩く「キャロリング」という習慣が残っています。
クリスマスのメッセージは何でしょうか。イエスの誕生物語はマタイ福音書1-2章とルカ福音書1-2章にあります。今年のクリスマスツリー点灯式でも申し上げましたが、マタイ福音書では、そのメッセージの中心は「インマヌエル」という言葉にあります。「インマヌエル」は、ヘブライ語で「神我らと共にいます」という意味の言葉です。マルコ福音書とヨハネ福音書には誕生物語はありません。しかし、ヨハネ福音書では、「神の言(ことば)」(ロゴス)である神の子を讃える「ロゴス讃歌」(1:1-18)という導入部があります。その中で、誕生物語に匹敵するのは1章14節です。
ヨハネ福音書の「ロゴス讃歌」では、キリストは「ロゴス」(言葉・理〔ことわり〕)と考えられています。天地創造以前に「ロゴス」であるキリストが存在し、「神」と「ロゴス」であるキリストが「共にあった」と訳されていますが、直訳すると「(顔と顔を合わせて)向かい合う」「対面している」という関係にありました(1:1-2)。
天地万物は「ロゴス」なるキリストによって創造されました。存在するものでキリストによらないものはないのです。すなわち、キリストは「万物」を支える存在の根底にあり、すべての存在の根拠なのです(1:3)。
また、その中に「命」もあり、キリストはすべての生きとし生けるものの「命」の源であると同時に、人間を照らす「光」でもあるのです。「光」は「闇」の中で輝いていますが、「闇」はそのことを知りませんでした(1:4-5)。
ヨハネ福音書のクリスマスのメッセージは次のとおりです。「ロゴス」なるキリストが地上にやってきて「肉体をとって」すなわち人間となって「私たちの間に宿られた」。「宿られた」という言葉を直訳すると「天幕(テント)を張った」となります。モーセが荒野で40年間生活した時に仮の神殿として「神の幕屋」(天幕・テント)を旅の途上で用いたように、神の子キリストは「肉体を取って」地上に「一時的に滞在した」のです。私たちはキリストの言葉と行いを通して「神の栄光」を垣間見るのです。暗い世界に差し込む一条の希望の光を見るのです。
それをパウロは、光輝く神の栄光をキリストの御顔に鏡のように反射した同じ光が、自分の暗い心を明るく照らし出すと告白しています(Ⅱコリント4:6)。キリストの誕生を自分の心の内に受け入れて、心の内で神の光が輝き出すのが本当のクリスマスの意味であり、クリスマスのメッセージなのです。
75年前の昨日12月8日は真珠湾攻撃の日でした。昨夜10時からの「報道ステーション」では、本学園の後宮俊夫元理事長の真珠湾攻撃の証言が放送されました。私も20年間後宮理事長と親しく交わらせていただき、お話を何度も伺いましたが、神の光を宿して「平和を創り出す」ことに邁進していくことを改めて思わされます。(山田 耕太)