学長室だより

ダビデの物語・ダビデの台頭史その5

ダビデの話は欧米では常識的に知られている物語で、教養のひとつです。こうした物語を知っているか知らないかで、相手の対応が全然違います。ビジネスの世界でも学問の世界でも知的な交流が大前提ですが、聖書についての知識が全くないと、欧米ではパーティーの席で会話の相手にもなれず話題にもついて行けません。聖書のドラマは、現実の政治世界を見る際の、手鏡のように使われているからです。
神の選びに与ったことで、サウルが何をしても良いと勘違いし、自分の思うままに振る舞う行動に出たことを紹介しましたが、世界には同じような神がかりの指導者が大勢います。旧約聖書は、権力に執着する人間の現実をえぐり出すものなのです。その指導者像をマックス・ヴェーバーが『支配の社会学』で採用し、支配の諸類型を構成する際に参考にしています。聖書が現代世界を見るための型(カタ)を呈示しているからです。
ダビデは、王として国際主義、地域主義という民族の課題に答えようとした、神を畏れる支配者でした。油注がれた(メシア)ダビデの子孫イエスがキリストと告白されるのですから、ダビデの生き方や思想を学ぶことは、敬和学園大学のキリスト教教育理念と無関係ではないのです。