学長室だより

太田俊雄のユニークな教育思想(4)

大学近くの聖籠町の果樹園では、夏の日差しを受けてぶどうが豊かな実を結んでいます。
前回は太田俊雄が尊敬する英語教師だった柴田俊太郎との出会いと柴田から「三俊」と呼ばれて「石屋の子」という劣等感を克服したこと、また「三俊」の本間俊平と柴田俊太郎の教育実践とその背後にある教育思想を紹介し、「三俊」の間に『矢と歌』が響き渡っていることを示唆しました。

太田俊雄は、柴田俊太郎が学校を辞めた後で、その後に理想の校長と思い描くようになる岡山黌の藤井豁爾(かつじ)校長と出会い、その人格的影響を受けます。藤井校長は閑谷黌(しずたにこう)の校長でしたが、閑谷黌が県立化する前に、その分校として岡山黌を始め、一時は両校の校長を務めました。しかし、閑谷黌が名称を変えて県立に移管する前に、岡山黌の校長に徹しました。

2017.9.8学長ブログ

岡山黌跡石碑(岡山市中区浜1丁目)

 

藤井校長は岡山藩学校の分校であった閑谷黌(「閑谷学校」)の教育の伝統を残そうとしたのです。その背景に内村鑑三の『代表的日本人』でも紹介されている中江藤樹と熊沢蕃山の陽明学があります。これが前回まで見てきたキリスト教の教育思想が接ぎ木される以前の「野生のオリーブの木」です。

2017.9.8学長ブログ

閑谷学校(岡山県備前市閑谷)

 

私は7年前に江戸時代以来の「閑谷学校」を訪れました。街中にある「足利学校」や「咸宜園」(日田市)とは対照的に岡山県と兵庫県の県境に近い山中にありました。詳しくは「太田俊雄の宗教教育思想(4)」(『人文社会科学研究所年報』No.11,2013年)をご覧ください。(山田 耕太)