学長室だより

太田俊雄のユニークな教育思想(3)

夏空にうろこ雲やほうき雲が出始めてきました。久しぶりに夜空を仰いでみました。天頂には白鳥座・わし座・こと座の夏の大三角形が美しく輝いていました。

前回は太田俊雄が英語教師時代に出会った小原國芳・羽仁もと子・河井道の教育思想と実践を紹介しました。今回は太田俊雄が私立旧制中学・岡山黌(おかやまこう)で出会った英語教師の柴田俊太郎の教育思想と実践、ならびに柴田がモデルとした本間俊平の教育思想と実践について紹介します。

柴田俊太郎は太田俊雄にとって生涯敬愛する教師でした。しかし、実際に岡山黌で英語教師をしたのは3年半のわずかな期間でした。柴田俊太郎は外交官や社会事業家を輩出した鳥取の名家・澤田家の出身で、柴田家の養子となって岡山黌を辞めた後は、鳥取に戻って実業家として活躍しました。

柴田は太田が石屋の子に劣等感を懐いていると見抜くと、山口県秋芳台の石切り場で青少年更生保護事業をした本間俊平と自分と太田を重ねて、「三俊」と呼んで太田を励ましました。太田は小学生のころから学校帰りや休日に、父親の親方や職人たちが切り出した石を載せたトロッコを押していました。

2017.9.1学長ブログ

倉敷市三田(みつだ)の「石切り山」の跡

 

私は最近になって「地域学」の授業の一環で、太田俊雄が生まれた岡山市万成(まんなり)で産出した桜貝を想わせる美しい桜色をした花崗岩「万成石」のサンプルを拝見しました。万成に近い倉敷市三田(みつだ)の「石切り山」で切り出していた「万成石」はこれだったのかと思わされました。

詳しくは「太田俊雄の宗教教育思想(3)」(『人文社会科学研究所年報』No.10, 2012年)をご覧ください。前回のブログで紹介した(2)32頁12行目の「1987年」を「1897年」に訂正してください。(山田 耕太)