学長室だより
神を待ち望む
クリスマスツリー点灯式
キリスト教のカレンダーではクリスマスの4週間前の日曜日から「アドヴェント」というクリスマスを迎える季節に入ります。「アドヴェント」とはラテン語の‟advenio”(やって来る、到来する)という言葉に由来し、日本語では「待降節」と言います。今年は12月3日から「アドヴェント」です。アドヴェントにクリスマスカードを送り、クリスマスツリーを飾って点灯して、神の子の誕生を待ち望みます。(なお、ツリーを飾る習慣はルターから始まり、19世紀のヴィクトリア女王の時代にイギリスに広まり、それから世界中に広まりました。)
涸れた谷に鹿が水を
求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか。
神を待ち望め (詩編42:2-3a, 6)
詩編42編の作者は、「昼も夜もわたしの糧は涙ばかり」(4節)と現在は涙に明け暮れる日を過ごしています。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。なぜ嘆くのか」(6節)と自分の将来に対して絶望しています。そこで、最初に「わたしは魂を注ぎ出し」、かつて「喜び歌い、感謝をささげる声」に溢れていた過去のよき日を「思い起こし」ます(5節)。次に、大自然のふところに抱かれて、高い山々の「ヘルモンとミザルの山から」深い谷川の「激流のとどろきにこたえて深淵は深淵に呼ばわり砕け散る波が」頭の上を越えていき、自分の小さな存在と対比して大自然を支配する神の力の大きさを「思い起こし」ます(7-8節)。こうして、絶望している自分に対して「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか」と自分を励まし、「鹿が谷川の水を慕いあえぐように」(口語訳)もう一度自分を鼓舞して「神を待ち望め」(6, 12節)と自分に言い聞かせます。
20世紀フランスを代表する女性の哲学者シモーヌ・ヴェーユは、大学で哲学を学んだ後で女子高校の哲学の先生になりました。体は弱かったのですが、20代半ばで一時期休暇を取って、工場労働者として働く経験をしました。その経験から『神を待ちのぞむ』(勁草書房、1967年、新装版1986年)という本でペラン神父に宛てた手紙の中で、「神を待ち望む」のに大切なのは苦しみの経験の中で「忍耐して待つ」ことを指摘しています。
「クリスマス」すなわち「キリストの誕生」「神の子の到来」は、どのような意味があるのでしょうか。洗礼者ヨハネの父「ザカリアの讃歌」(ルカ1:68-79)の最後の3行では、次のように歌っています。
高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
我らの歩みを平和の道に導く (ルカ福音書1:78c-79)
「キリストの誕生」「神の子の到来」は、天から「あけぼの光」が射し込むように、絶望の淵で「暗闇と死の陰」に座っている人々の顔を照らし出して、暗い心の中に希望の光が差し込んでくる、という意味があるのです。それは最終的には私たちの心に平安を与え、世界に平和をもたらすことに導いていくことがその目的です。
自分は将来をどのように生きるのか、どのような職業につくのか、将来に対して不安をいだいている人がいると思います。また、クラスやクラブやサークルなどの人間関係で悩んでいる人がいると思います。携帯やスマホを持つ生活に慣れてくると、手紙を書いていた時よりも、忍耐して待つ機会が次第に少なくなってきているのではないでしょうか。大学生活4年間で、どのような職業につくことが自分らしい生き方になるのかよく考えて、忍耐して待ちましょう。クラスやクラブやサークルなどの人間関係がうまくいくために、忍耐して待ちましょう。「クリスマス」という「キリストの誕生」を祝い、「神の到来」を心の内に迎え入れる前に、さまざまな経験を通して、忍耐深く学びましょう。そして、希望の光を心の内に灯して、どのような職業に就こうとも、草の根のような働きで人々の間に平和をもたらすことに努めましょう。祈りましょう。
2017年12月1日
敬和学園大学長 山田耕太