学長室だより

「ゲッセマネの祈り(マルコ14:32-42)」(2021.2.5 C.A.H.)

20210205チャペル・アッセンブリ・アワー1

昨年はコロナ禍にも関わらず映画「鬼滅の刃」が観客動員数も興行収入も過去最高を記録したことが話題になりました。今から17年前の2004年にキリストの生涯の最後の12時間を再現した映画「パッション」(受難物語)が全世界で話題になりました。イエスが十字架刑にかけられる前のムチ打ちの場面がリアルで、卒倒する人や心臓発作を起こして亡くなる人も出ました。私はゼミ生を連れて映画館で見、また家族と一緒に見ました。

監督のメル・ギブソンは、光と影のコントラストで有名な16-17世紀のイタリアの画家カラバッジョの絵画を念頭に置いて、「動くカラバッジョ」を映画で描こうとしました。その「パッション」は「ゲッセマネの祈り」の場面から始まります。登場人物はイエス時代の民衆が日常生活で使ったアラム語で話し、ローマの司令官や兵隊はラテン語で話し、字幕は認めるが各国語への吹替は認めないという念の入れようでした。

ゲッセマネとは地名で、エルサレム旧市街の城壁とイエスが昇天したオリーブ山の間の谷間にある園の名前です。アラム語で「油絞り」という意味の地名です。オリーブ山からゲッセマネの園までオリーブの木々が生えていました。ゲッセマネの園には今でも樹齢約二千年のオリーブの古木が八本生えています。かつてはそこでオリーブオイルを絞ったのでしょう。今は修道院があり、普段ですと祈りに三々五々訪れる人が絶えません。

イエスは最後の晩餐でユダの裏切りを予告し、その食事の後でペトロの離反を予告して、ゲッセマネの園にやってきます。イエスは12弟子をそこに残して、リーダー格のペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人のみを祈りの場に連れていきます。イエスが自分の死を覚悟して、最後の祈りをささげた祈りが「ゲッセマネの祈り」です。

イエスは死を前にして「ひどく恐れてもだえ始めた」(マルコ14:33)と書いてあります。しかし、この表現はマタイ福音書では「悲しみもだえ始めた」(26:37)と死に対する「恐れ」のモティーフが削り落とされてトーンダウンしています。ルカ福音書では一切削除されています。最も古いマルコ福音書はイエスの人間的な面を描いて伝えています。しかし、時代が下ると人間イエスから神の子らしからぬ描写が削除されていくのです。

さらにイエスは「私は死ぬばかりに悲しい」(14:34)と続けます。直訳すると「私の魂は死に至るまで悲しみでいっぱいだ。」これは「なぜうなだれるのか、私の魂よ」(詩編42:6 12, 43:5)に通じる表現です。絶望のふちに立たされ「うなだれた魂」であることを告白します。そこからイエスは極めて短い最後の祈りを献げます。

「アッバ」これは、「主の祈り」の最初の神に対する呼びかけの「アッバ」(ルカ11:2)と同じです。3~4歳の幼児から大人になっても絶対的な信頼をもって父親に対して呼びかける時に用いるアラム語です。それをギリシア語に訳して「父よ」とつけ加えて「アッバ、父よ」(14:36a)となります。イエスが神に対して絶対的な信頼を寄せて「父」と呼びかけたことから、キリスト教では「父なる神」という表現を用いるようになりました。

「あなたは何でもおできになります。」(マルコ14:36b)これは「主の祈り」の前半の「御名の祈り」「御国の祈り」(ルカ11:2)で神を称賛する祈りを献げるのと同じように、ここでも全知全能の神を讃えます。すなわち、最初に「神称賛の祈り」を献げます。
 
続いて、「主の祈り」の後半で「パンの祈り」「罪の赦しの祈り」「誘惑を避ける祈り」(ルカ11:3-4)という人間の「願いの祈り」を献げるように、自分の願いを神の前で率直に申し述べます。「この杯を私から取りのけてください」(マルコ14:36c)。「この杯」とは「苦いぶどう酒」を入れた「苦難」を暗示する「杯」、「死」を意味します。すなわち「死を遠ざけてください」「死を避けさせてください」という「願いの祈り」を献げます。

最後に、一つの祈りで結びます。「しかし、私が願うことではなく、御心にかなうことが行われますように」(14:36d)。直訳すると「私の(願う)ことでなくて、あなたの(願う)ことを私は望みます」すなわち「自分の願いよりも神の願いが実現するように」と祈ります。自分の願いは死を避けることですが、最後は神の手に「委ねる」のです。こうして覚悟ができて「時が来た。立て、行こう」(マルコ14:41-42)と困難や苦難に向かって立ち上がっていくのです。祈りましょう。(山田 耕太)