学長室だより

「インマヌエル(神我らと共にいます)」

20191129クリスマスツリー点灯式1

点灯式で小説教をする山田学長

 

クリスマスツリー点灯式

皆さん、こんにちは。今日はクリスマスツリーの点灯式にようこそお集まりくださいました。さて、クリスマスツリーを飾る習慣は、宗教改革者のルターが今から500年程前に、樹木の中に霊が宿るというゲルマン人の古来の伝統的な信仰をキリスト教化して取り入れたとされています。以来、プロテスタント教会ではクリスマスツリーを飾る習慣があります。カトリック教会では今から約800年前の聖人のフランシス以来、イエスの誕生の馬小屋と聖家族・羊飼・東方から博士のミニチュアな人形(英語では「クリブ」、フランス語では「クレッシェ」と呼ばれている)を祭壇の脇に飾る習慣があります。クリスマスはキリスト誕生の4週間前の「アドベント」(待降節)から始まり、誕生後の「12夜」を過ぎた1月6日の「公現日」(エピファニー)まで続き、その期間中これらが飾られています。また、アドベントの最初の日にクリスマスツリーに点火する習慣があります。

神の御子キリストの誕生を祝うクリスマスのメッセージとは何でしょうか。それは一言で言えば、「インマヌエル」(「神は私たちと共にいます」という意味のヘブライ語)です。そもそも神は存在するのでしょうか。存在するとしたらどこに存在するのでしょうか。昔、モーセが荒れ野で神と出会った時に、モーセが神に「あなたの名前は何というのですか」と問うと「私は在る、在るという者だ」と神は答えました(出エジプト記3:14)。すなわち「存在する」という意味の名前だと答えます。それは旧約聖書が書かれたヘブライ語では「ヤハウエ」という名前になります。「私は在る、在るという者だ」は英語では “ I am that I am” という表現になります。すなわち、「ヤハウエ」というヘブライ語の神の名前は、英語で表現すると“being”(存在)になります。

神はどこにおられるのでしょうか。古代や中世の人々、また私たちも幼児の時を思い返すと、天上・地上・地下という三階層で成り立つ世界観に基づいて、神は天上におられると考えてきました。神は天におられるのでしょうか。フロイト以後の近現代人は意識の下に無意識の層があることを知りましたが、神は無意識の層におられるのでしょうか。そうではないのです。私たちには命が与えられていますが、神は「命の源」なのです。私たちが生きているのは命の源である神によって生かされているのです。神は私たち一人ひとりの存在の根底を支えていてくださるのです。神は私たちの存在の根底におられるのです。私たちが意識していようが、意識していまいが、私たちが生きている限り、私たちの存在を根底から支えて、共にいてくださるのが神です。たとえて言うと、太陽が照っている時に戸外にいると、影ができますが、神は影のような存在なのです。神は私たちに寄り添って、私たちの存在を影で支えていてくださるのです。これに気づいた旧約聖書の詩人は次のように表現しています。

     「主よ、あなたは私を究め、私を知っておられる。
     座るのも立つのも知り、遠くから私の計らいを悟っておられる。
     歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。
     私の舌がまだ一言も語らぬ先に、主よ、あなたはすべてを知っておられる。
     前からも後ろからも私を囲み、御手を私の上に置いていてくださる。
     その驚くべき知識は私を超え、あまりにも高くて到達できない。
     どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。
     どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
     天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、
     陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。
     曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにいまし、
     御手をもって私を導き、右の御手をもって私をとらえてくださる。」(詩編139:1-10)

     「死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない。あなたが共にいてくださる。」(詩編23:7)

ローマ教皇フランシスコは、今週日曜24日に広島・長崎で全世界に向けて核廃絶を訴え、今週火曜26日に帰国する直前に上智大学で、寛容さを失いつつある日本社会の学生に、知識を学ぶばかりでなく、貧しい人々のことも考えて優しい心をもって人に接し、希望に溢れる社会をつくるように語りました。これは日本の学生たちに向けて語られたものです。愛と希望に溢れた平和な世界を創り出していくために祈りましょう。(山田 耕太)