キャンパス日誌

新型コロナウイルス感染と心の連帯、私たち一人ひとりに求められていること

新型コロナウイルス禍にある、敬和学園大学に連なる皆さんに

新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、これまであった人と人との直接のコミュニケーションを遠ざけることが求められています。このため、多くの皆さんがストレスを抱えながら日々を過ごされていることと思います。

こういった中で敬和学園大学に連なる皆さまにお願いしたいことがあります。

体調が悪い方、感染が疑われる方、感染した方、感染者と関係している方、そういった方々が自ら望んでそういう状態にあるのではないことを理解してください。
そういった方を差別したり、非難や中傷したりすることがないようにしてください。
特にSNSなどでの誹謗中傷は、発信者だけでは取り消すことのできない拡散性をもっていることを忘れないでください。

中庭で枝を広げるハナミズキ

中庭で枝を広げるハナミズキ

 

心に留めるべきは 誰もがこの感染症にかかりうるということ。感染者の立場に明日は自分が置かれているかもしれないのです。また、症状が出ていないだけで、自分ももう既に感染者であるかもしれないのです。感染者と非感染者の間の境目は、本当は曖昧なのです。

そうだとするなら、大切なことは、感染した人々等を、自分(たち)にとっての脅威と考え、レッテルをはり、社会的に制裁を加え、切断してゆくことではなく、身体的には距離を置きつつもウイルスの脅威に対し余りにも無力な同じ人間同士として、精神的に連帯してゆくことなのです。そして必要とされているのは、他者の苦しみに思いをはせ、その苦しみを自分の苦しみとして引き受けてゆく想像力と思いやりなのです。
これは、身体的な苦しみと不安の中に置かれた人々を、仲間として心の内に置き直すことといってもよいでしょう。

オレンジホール脇に咲く白いバラ

オレンジホール脇に咲く白いバラ

 

そのことを何にもまして教えてくれるのは、聖書の中に記された、イエス・キリストの姿です。主イエスは、感染症(伝染病)に罹り、身体的な重荷を抱えたばかりか、社会的にも疎外されてしまった人々のもとに近づき、その苦しみを自分の苦しみとされつつ、病を癒されていったことが伝えられています。
イエスとは異なり、私たちには病を癒す力もなく、身体的に歩み寄ることもできませんが、心において歩み寄り、苦しみにおいて連帯するという意味においてなら、イエスの姿にならうことができるはずです。このことは、キリスト教主義に立つ学校に連なる私たち一人ひとりに求められていることだと思います。

ウイルスの脅威にさらされている今は、社会から、また私たちの心から、思いやり(優しさ)がいとも簡単に奪い去られてしまうような時です。そのような時だからこそ、私たちには「優しさを不可能とするものと戦う」(大江健三郎)覚悟が求められているのです。「優しさを不可能とするもの」とは何か。それは、ウイルスであると共に、それ以上に、他者の痛みと苦しみを心の外に置いてしまう私たち自身の心といってもよいかもしれません。

尋真館横で大きく育ったメタセコイヤ

尋真館横で大きく育ったメタセコイヤ

 

ウイルス感染拡大が終息した時には、みんなでまた笑顔でコミュニケーションがとれるよう、お互いが支え合いながら、この難局を乗り切ってゆきましょう。この試練の時を通して、敬和学園という教育共同体に連なる私たち一人ひとりが、より一層の堅い絆の中に結ばれてゆくことを信じつつ、祈りつつ。 (敬和学園大学宗教部長 下田尾治郎)