チャペルのひびき
大学で学ぶこと
チャペル・アワーでは、田中利光先生(共生社会学科教授)が、旧約聖書の「エレミヤ書」を通して、大切なメッセージを届けてくださいました。神は、あめんどう(アーモンド)の木の枝(花)を注視させることを通して、エレミヤに世界に大きな変化が起こることを伝えます。そして、その世界の変化を的確に捉えつつ、その情勢に正しく対応するための備えをさせるのでした。大学での学びも同様の備えといってもよいでしょう。大学で学ぶことの目的の一つは、国内外で起こることに関する客観的情報に基づき、おのおのの情勢に対して正しく対応するための自分の考えを培ってゆくこと。その際、聖書は、正しい判断をなすうえでの、確かな尺度となることを、田中先生は教えてくださいました。引き続くアッセンブリ・アワーでは、新任の加藤裕康先生(国際文化学科教授)が、これまた大学での学びの本質に関して、示唆に富むお話をしてくださいました。正解を教師が握り、正答が要求される高校までの学びとは異なり、大学での学びは、答えが簡単に見いだせないことに対する探究であり、それは暗い森の中をたどってゆく道行のようなもの。教師も、また森の中をたどりゆく者の一人であるが、多少は、その歩行の訓練と経験において習熟するものであるがゆえ、その教師たちを大いに利用してほしいとのことでした。また、大学での学びの意義は、根拠なき支配から、自由にされ、自律性を確立するためであるとのことを、宗教改革期のエピソードを通して、先生は教えてくださいました、両先生の博識に基づくメッセージを通して、大学での学びについての思いを深めるよき時となりました。(下田尾 治郎)
Ⅰ.チャペル・アワー
説教 「正しいものを見るちから」 教授 田中利光 先生
Ⅱ. アッセンブリ・アワー
講演 「大学で学ぶことの意味」 教授 加藤裕康 先生
<参加学生の感想>
感想1) 今回のチャペル・アワーでは、旧約聖書を学ぶ意義として、過去の歴史に学び、悔い・改めることによって本当の自分を知ることで、身近なものになっていくことを知った。また、アッセンブリ・アワーでは、「学者」 としての自覚を持って、学習の意義と向き合い、さまざまな分野が散りばめられた学問の中で自分が求めている知識と出合うことが大切であることを学んだ。これまで「答え」を学び、その答えから原理を紐解く授業だったものが、大学や学者という立場では、「答え」を教えるのではなく、「答えのないもの」を自分から追求をしていくという支配されることのない環境であることを知った。その中で、何を根拠に知識を定義するのか、どのようにしたら分かりやすく教えられるか、定義や歴史が当たり前のように変わる事情に対して、「なぜ?」、「根拠は?」という追求をしていきながら深い教養を養うことが、特に教育者にとって大事な視点であることを知った。積極的に研究に飛び込み、先生や学校の資料を使いながら、自分の意見を吟味することが非常に大切であることを知った。旧約聖書はもちろん、本を読むことによって、自分の意見で判断することが大切であることを知った。将来、大学院で深い学びを追求し、教育者として学生と学問を深めていくための非常に役に立つ講演となった。
感想2) 今日のチャペル・アワーでは、「正しいものをみるちから」というテーマで説教を聞きました。聖書箇所であるエレミヤ書の1章では、当時の世界情勢がどのようなものなのかをエレミヤが察知した瞬間を捉えたものであると学びました。預言者であったエレミヤは、誰からも支持されず生活も安定せずその中で自分の役目をこなしていくことしかできませんでした。主がエレミヤに何が見えるかと問うた時、状況の変化を表すアーモンドの木が見えると答えました。この話を聞いて、私は普段国内や世界の情勢に目を向けることが少なくなっていると感じ、そこから得た情報で自分の意見や考えを持つことの大切さを学びました。そしてその情報を読み取るちからを身につけ、情報の正しさが分かる人間になりたいと思いました。アッセンブリ・アワーのお話では、私たち大学生は生徒というのではなく学者であると学びました。高校までの勉強の仕方とは違い、学者として自分の勉強の幅や経験を広げていくことが大切だと考えました。